日本明慧


更に恐怖心を取り除き、正覚を確立する

文/大陸の大法弟子 正興

【明慧ネット2003年11月9日】真善忍を信仰するため獄中で迫害に遭った経験の後、私は自分が恐怖心が取り除かれ、各種の公衆の場所で真相を伝えることができると思っていた。しかし最近自分の意識の中で怖がる心がまだ現れることに気づいた。迫害の真相ビラをくばりにいく時、正念を発する時、同修と交流しあう時,「何かに遭わないか,誰かに見つからないか」等の様々な恐怖心が出て来る。このような恐怖心を心の中に持っていては回り道をすることに違いない。

ある時、私は同修の所へ宣伝カードを送りに行ったが、同修が家にいなかったので、私はそれでは私がこの数枚のカードを貼り付けることにしようと思った。私は近くの電信柱のところに来てその上に貼っていた。突然一本の懐中電灯の光が照らしてきた。私は始めは怖がらなく、引き続き貼っていた。その時にまた車両のライトが照らしてきた。そこで私は付近の庭の中に入って、壁を乗り越えて去った。私は何歩か走って、これは恐怖心ではないか?と心の中で思った。そこで私はまた戻ってきた、その時何人かが私のそばを通って行った。

ある日家庭教師を終えて帰って来るとき、私は電信柱にカード貼っていた。突然1台の自動車が村の中から私に疾駆してきて、それに車両のライトはたいへん明るかった。私はまたパトロール・カーだと思って、ぱっと駆け出して、1本の通りを通りぬいて、軒に貼りながら、家の方へ歩いて行った。スローガンは貼り付けたものの、しかし私はまた一段の回り道を歩いた。このような心理状態の下で貼るスローガンは長く持たないうちに引き裂かれてしまった。

この二つの事は私に注意させた、「真相を伝える時に、心理状態はきっと純粋にならなければならない、それでこそはじめて法の威徳を体現することができる。」

師父の経文《法がこの世を正す予告》が発表されてから既に一年あまりになる。しかしある地区の邪悪はどうして未だに荒れ狂っているのであろうか? どうしてまたつかまれ、逮捕されられるか? 迫害されるか? 私達の“いくつかの恐怖心”が私達に“いくつかの方面”において受動的な位置に置かれていさせることではないか?

恐怖は私達に出てきて真相を言い出す勇気をなくさせる。恐怖は私達がうまく真相を伝えることができなくさせる。恐怖は私達に迫害を引き続き受けさせる。恐怖は私達を正法の進行過程についてゆけなくならせ、計り知れない衆生が救われなくさせる。これこそが本当の損失だ。避けて、脱走して、承諾、待つのは大法弟子の本当のイメージではない。師父はおっしゃった、「師がいて、法がいて、何を恐れるか?」《法輪佛法(シドニーでの説法)》、「どんな時になっても魔は道より高くなることはありえません」《転法輪》。私達は正法時期の世の中の衆生が助かる唯一の望みである。