常人的な心に動かされてはいけない ─ 真相を伝える時の心情を語る
真相を伝える時、私はよく常人的心に動かされる。うまく話せると気が楽で喜びを感じる。話を聞いてくれない人や、師父に対して不敬な人に遭うと、非常に意気阻喪になる。実はこの問題に関しては、内に向けて探す必要のある多くの要素がある。真相を伝える時に自分の心の状態をよく見ると、常人の心に動かされない、心が良い状態にある時は、効果が良い。もちろんこれはもう救う事が出来ない場合を含まない。
ある時私の職場の以前のマネジャーとその友達に真相を伝えていた。彼には数回洪法した事があり、彼は私が良い人間であり、法輪功は良いという事を知っていた。ところが彼は私をその友達に紹介した時に、私が良い人であることを言うと共に、大法について政府の宣伝文句を言い、否定的な事を言った。私は少し不満に思った。すると彼は突然言った、「見てご覧。私がちょっと政府の宣伝を言っただけで、あなたは不満になった・・・」 私は人間的心に動かされたことに気付き、その背後の邪悪要素を除去した。私は又自分の悪い執着をも見つけた ─ 常人に頼ろうとする心、それが邪悪に隙を与えることになった。私は彼の同僚であるという関係を利用して彼の友人に真相を伝えようとし、彼が手伝ってくれることを期待した。それが逆効果となった。師父の言葉を思い、常人に頼るべきでないことに気付くに到った。私はただ迫害されている事を話し、常人はそれを受け入れるのであった。自分の執着が分かり、私は平静になって話した、「信仰の自由は法で許されており、上訴することは国民の合法的権利です。しかし、私は、法輪功は好い、と真実を話しただけで解雇されました。あらゆる拷問に耐え、強制労働所に三度も送られました。絶食後連れ出された時には死にそうでした。法輪功を止めると言えば、月給2,000元を与えられるところでした。何という法でしょうか? 法輪功は好い、ということを心の中にしっかりと覚えておけば、あなたに福がやって来ますよ。」 私の慈悲の心が現れた時、だれも私と口論しようとしなかった。皆静かに聞いていた。師父は2001年ワシントン法会における説法で言った、「あなたのいかなる心も執着になり、邪悪に利用されかねません。この念が生じた途端、邪悪があなたに偽の現象を演化するかもしれませんが、その時、それは一種の妨害となります。今という時間は大事に使わなければならず、この時間は弟子達に残したものです。」 この体験は師父のこの言葉の認識を更に深めた。真相を伝える時に心を純粋に保ち、常人の心に動かされないことの大切さを認識した。
実際、師父はオーストラリア法会にて言った、「あなた方が私のことを悪く言ったとしても、私はあなた方を怨んだりしません。私の心は常人の中にはないからです。私のことをあなた方が良いと言おうと、悪いと言おうと、また私のことを神であると言おうと人間であると言おうと、私の心が動かされることはありません。人間のいかなる心も私を動かすことは出来ないからです。あなた方が私と同じ状態に到るなら、あなた方はすでに円満成就から遠くないところまで修煉したということになります」。(非公式訳) 真相を伝える過程において、私達は様々な情況に出逢うかもしれない。私達は正念を保ち、慈悲をもって人に対し、大法の真相を明確に伝えれば十分である。師父が言った通りである: 「求めずに行ない、常に道の中に居る」 (洪吟 ─ 道中)、「修は己にありて、功は師にあり」(転法輪)。
大法弟子として成すべきことを成せば、全ては修煉の中にある。人が何を選ぼうと、勝手である。私達が良く行なわなければ、望むような結果になるとは限らず、邪悪に隙を利用されるかもしれない。これは転法輪第六講の話を思わせる。「昔、ある人が一生懸命修煉して、やっと羅漢になれるところまで成就しました。もうすぐ正果を得て、羅漢になれるのだと思うと、これを喜ばずにいられるでしょうか? やっと三界から抜けられるのです。しかし、喜ぶこともまた執着心で、歓喜心なのです。羅漢は無為であるべきで、心が動じてはいけません。結局その人は堕ちてしまい、それまでの修煉が無駄になってしまいました。無駄になったからやり直すしかないので、一から修煉し直し、ずいぶん苦労をして、また上がってきました。ところがその人は、今度は心の中で、『喜んではいけない。喜ぶとまた堕ちてしまうから』と言って、怯えました。怯えた途端、また堕ちてしまったのです。怯えるのも執着心の一つです」。このことから、修煉は非常に厳粛なことであると分かる。私の認識では、私達の修煉は仏教のものとは異なる。私達は微視的なところから変わって行く。師父は私達の修煉ができた部分を隔離することにより、私達の次元が堕ちることを防ぐ。 大法修煉においては、各修煉者に対する要求は絶対的に厳格であり、正しい。執着を一つ一つ取除く必要がある。師父は転法輪の始めに一つの真理を話した、「絶えず自分の執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」。「・・・如何なる人間の心も天上へ持って行くことはできませんから」。(米国西部法会にて) このように私達は修煉において自分に対し、厳格に要求しなければならず、常人の心に影響されることのない状態に到らなければならない。
この理を悟った後は、真相を伝える時に、私はもう誤った路を取った人と口論することはなくなった。私は二度と感情的になることはなく、真相を聞こうとしない人達に妨げられることもなくなった。常人は真相を知らないから、理智的に振舞えない。彼らが真相を知ることを抑制しているのは、邪悪である。私達の心がそれに影響されるなら、邪悪が目的を達成するのを許すことになり、この時点で私達は常人の次元に堕ちたことになる。この時には私達の言葉は法の威力を持たず効果は良くない。
後程私は、以前何度も私と共に監禁されだが、魔道に走ってしまった同修に再会した。彼女に真相を伝えるのに、純粋な穏やかな心を保つことができた。彼女に師父の説法と新経文と小冊子「昔日の同修へ」を渡して、この小冊子は私の心を語っていること、師父は今も彼女を待っていることを言った。彼女の夫は荒い言葉を吐き続けていたが、私は全く影響されなかった。私の目的は彼女を救い、法を与えることであり、それだけであった。最後には彼女は感激して、全部受取った。彼女は、他の「慈悲深くない」同修とは違い、私の心は良いと言い、それらを読んでみると約束した。実は始めて彼女に会いに行った時は、私の心は修煉者のものではなく、落ち着かなく、怨みっぽく、失望等があった。感情的で慈悲がなかったので、効果は良くなかった。今回は、師父の助けであると分かっているが、良い心の状態にあった。彼女の心が再び明白になるのを望んだ。私は又、様々な事情により大法からはずれてしまった人達を、同修達が救うことを望む。どうか気落ちしないように。あなた方の慈悲は全てを溶解する。
以上は私個人の認識である。適当でないことは御指摘戴きたい。有難う。
2003年11月30日
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