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楊宝春さんは迫害されて足を切断したが、両手で支えて北京へ陳情に行こうとしたが

[明慧ネット2003年11月20日]天から与えられた煉功の権利が不法に剥奪されたため、河北省邯鄲市の大法弟子楊宝春さんは、1999年8月北京へ陳情に行った。捕えられて地元の邯鄲労働教養所第5大隊で諸々の迫害を受け、足まで切断されたが、何回も邯鄲市安康医院(精神病院)に送られて、現在に至る2年以上迫害されてきた。その間楊さんは釈放されて家に帰る際に両手で支えて北京に向かって5キロほど行ったことがある。

大法弟子楊宝春さんは、男性30歳過ぎで河北省邯鄲市の紡織工場の労働者である。1999年8月、江氏集団が法輪功を迫害し、法輪功学習者が自由に煉功する権利を剥奪したため、北京へ陳情に行き、人々に法輪功の真相を伝えた。北京で悪警察に拉致されて邯鄲に戻され、1999年9月19日から邯鄲市行政留置場に監禁された。留置されている時、看守と犯人達に真相を伝え、煉功を続け、大きな声で「洪吟」を暗誦した。看守に脅かされても動揺せず、継続して煉功した。留置場に不法に一ヶ月監禁された。中国の憲法には留置期間が15日を過ぎてはならないと規定されているが、これから見ても大法弟子にはどんな法律も適用しないことが分かる。当時監禁されていた大法弟子はみな一ヶ月以上になり、監禁期間が過ぎたので、所長は責任を取らされるのが心配で、自分には責任はない、告訴するなら上を告訴するよう大法弟子達に言った。

楊さんは大法修煉を続け、邪悪に妥協しなかった。1999年10月19日にまた邯鄲市第一留置場に送られて、一ヶ月無理やりに監禁された。1999年11月19日から不法に2年の労働教養を科されて、邯鄲労働教養所第5大隊に送られた。(第5大隊の悪警察の所長は王風である)

労働教養所にいる時、楊さんは警察と犯人に真相を伝え、常に公安局や労働教養所など各部門に手紙を書き」、自分が大法を修煉してからの心身の変化を伝えた。陳情の手紙をたくさん送ったが何の返事もないため、断食と煉功で不法監禁に抗議し、迫害に抵抗することにした。

2000年3月から断食を始めた。3日後楊さんは悪警察王風に事務室に呼び出されたが、その時大法弟子秦建学さんは断食していたため、すでに事務室で残酷な体罰を受けていた。王風は秦建学さんを指さしながら楊さんに憎々しげに言った:「お前も保証書を書かず、断食すると彼と同じようになるぞ。」楊さんは:「大法を修煉するのは間違いではありませんから、私を迫害することにきっぱりと抗議します。」と言った。話が終わるや否や、七、八人の悪人が来て、ズボンを脱がせ、棍棒で長時間殴った。腿は殴られて変色した。しかし楊さんは妥協せず断食を続けた。王風は人を指図して楊さんを縄で縛って残虐な刑罰を加え天井から吊るした。楊さんは全身汗まみれになったが、しかし例え死のうとも屈服しなかった。王風は楊さんと秦さんを大きな木に縛った。楊さんが続けて断食すると、悪警察と犯人20人以上が楊さんに無理やり食べさせ、また毎日塩が多量に入ったお粥を多量に食べさせた。同時に王風は犯人を使って、皮ベルト、皮靴、棒、腰掛けなどで楊さんと秦さんを酷く殴った。二人は殴られて頭が大きく浮腫み、目も開けられなくなった。楊さんは20日以上断食したが、洗顔も、歯磨きもさせてもらえなかった。

その後楊さんは2回断食したが、悪警察は鉗子を持って口をこじ開け、無理やりに食べさせた。

楊さんと秦さんは煉功すると木に縛られたり、ベッドに縛られたり、殴られたり、ゴムの棒で滅多打ちされた。彼らが書いた悪警察を控訴する陳情書は悪警察王風に破られてしまった。楊さんの両手は常に引っ張られてベッドの両端に縛られ、丸一日このような状態だった。ある日、楊さんは悪警察の暴行を告訴する資料を書いたが、悪警察王風に見つけられ、悪警察や犯人10人以上にゴムの棒や電気棒で、手足などを殴られた。30分以上酷く殴られたので傷だらけになった。

労働教養所に誰かが見学に来ると、王風をはじめとした悪警察は彼らを騙し、楊さんら堅く修煉する大法弟子が見えないように隠してしまった。楊さんは常に残虐な体罰を受けたため、顔の形まで変わり、身体の形まで変わってしまっていた。悪警察は迫害の真相が暴露されないようにする為、長い間親族の見舞いをさせなかった。楊さんは王風に「あなたはわれわれを残虐に体罰し、酷く殴り、虐待していますが、自分がやったことを公表する勇気がありますか?」となじったが、王風は我ながら道理に背いていると分かっており、答えられなかった。

楊さんは2000年10月頃邯鄲労働教養所に転送されて入教隊に入らされた。入教隊でも彼は煉功を続けたので、常に悪警察と犯人に酷く殴られた。しかし、彼は堅い意思を持って動揺することなく煉功した。彼の左胸には未だに長さ10センチぐらいの傷があり、他の所の傷もはっきり見える。入教隊の悪警察は常に楊さんを殴り、殴りながら:「俺がファッショだ、お前を殴るんだ、お前の修煉を成功させない、お前が成功すると俺は地獄に行かなければならない。」と言った。

2000年の年末、邯鄲市の気候は昔よりずっと寒く、夜寒い時は氷点下十五、六度まで下がった。よく大雪が降り、寒風が骨身にまでしみるようだった。悪警察は楊さんの煉功を阻むために、衣服を無理やり脱がせ、丸裸にさせて衣服を隠し、綿入れの靴を屋根に上げて置いた。楊さんは着る物がなくなり、下着だけで、裸足になったが、煉功は続けた。悪警察は氷が入った水を頭からかけ、全身を濡らした。長期間残虐な体罰に苦しめられたため、身体が衰弱している上に、冷水をかけられたため足が凍傷になった。悪人は常識に反して、足を無理やりに湯の中に入れたため、凍傷がもっと酷くなった。それにまた下着まで剥がして、布団で包み、数人が上に座って彼を動けないようにした。

足の傷は更に悪化していき、腐って青く変色し、感覚がなくなった。この時もう既に骨と皮ばかりにやせこけており、危篤状態に陥った。白血球が2〜5グラムだった。労働教養所は責任逃れをするために、保証人を立てて楊さんを一時出所させて、邯鄲市紡織局病院で足を切断させた。危篤の知らせを家族に送り、足を切断しなければ3日以内に死亡するだろうと医者が言った。家族は仕方なく切断することに同意した。右足の膝以下を切断した。切断してから10日も経たない内に、楊さんの身体がまた非常に衰弱した状態になり、邯鄲の610と労働教養所と紡織工場の悪人は一緒になって楊さんには精神病があると嘘をついて、2001年2月26日から精神病院に送り迫害を続けた。(現在の邯鄲安康病院である。住所は距肥郷都市道路6キロあたり、309国道上にある。)

楊さんは安康病院にいる時、歩けないため両手で地面を支えて少しずつ移動した。彼は必死に精神病院を脱出して、北京に行って大法を証明したがった。悪医者は精神病患者達に指示して楊さんを引っ張ってきて、持ち上げてコンクリートの地面に激しく投げつけた。楊さんは痛みに耐えながら外に向かって行ったが、また引き戻されて投げられた。これを数回繰り返えされた。悪医者は怒って、楊さんをベッドに縛り付け、器械を用いて通電させ、極度に苦しめた。

精神病院で2年以上苦しめられたが、終始節をかたく守って屈服せず煉功してきた。悪医者はしばしば精神を破壊する薬を知らないうちに食事に混ぜて食べさせた。それを食べると涎が流れ、全身が震え、だるくなり、意識が朦朧として、老人のように行動が緩慢になった。後になって悪医者が薬を使っているのを見つけて、数回強く抗議してから病院側は薬をやめ、楊さんの身体は回復した。

2001年12月28日午後3時頃、楊さんは保証人を立てて釈放された。29日の午前1時頃、楊さんは両手で地面を支えて、少しずつ家を出て、北京へ陳情に行こうとした。両手とお尻は擦れて血が出たが、後でそれが大きな傷となった。朝6時までに5キロぐらいしか行っていなかった。紡織工場から派遣されて来た人に捕えられた。紡織工場の工場長白盾、書記張勤池は再び楊さんを精神病院に送ることにした。この時楊さんはまた家から出て、両手で地面を支えて北京に向かった。3〜4キロ行った所でまた捕えられて精神病院に送られた。

楊さんは労働教養終了の通知をもらっているが、しかし、ずっと自由になっていない。その主な原因は邯鄲市の610と紡織局の610が紡染工場を支配して、何の法的根拠もなしに不法に監禁しているからである。

現在大法弟子楊さんは邯鄲市安康病院に監禁されて迫害されている。あらゆる方法を利用して楊宝春さんを救出し、自由を取り戻せるようお願いしたい。

関係する電話番号
610主任 曹士霞 事務室電話:0310—7413519、携帯:13803101111、自宅:0310—3158028
610副主任 趙XX 事務室電話:0310—7413517
邯鄲市チョンタイ区公安分局 局長:石宝中
分局電話中継:0310—3010944
事務室:0310—3016470
邯鄲市紡織集団会社 中華北大街61号 郵便番号:056002
中継電話:0310—3025545 3025844 3025981 3025983
総経理電話:0310—3023660
社長電話:0310—3023373
事務室電話:0310—3017812
邯鄲市紡染工場事務室電話:0310—7025539、郵便番号:056002
工場長:白盾 書記:張勤池
邯鄲市安康病院電話:310−855-7120
(実は精神病院)院長:王燕宝
邯鄲市労働教養所電話
中継:0310-4010037、0310-4010707、0310-4010158