日本明慧


“当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する”に対する再認識

文/大陸の学習者 鍛玉

【明慧ネット2003年12月6日】師父の“当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する”評注が発表されてから既に半月が経った。最近明慧ネット上で、この方面に関する文章が、とても多く出ている。しかし、気になったことは、多くの場合どうやるかについてであり、このこと自体に対して、法理上いかに認識するかについて議論する人が、少ないことである。従って、最近行った事と合わせ、このことに対する自分の認識を簡潔に述べてみたい。

一ヶ月あまり前、当地の学習者に向けて、迫害加担者の情報を集める呼びかけを書面で行った。しかし、今日に至るまで、フィード・バックされた資料はわずかである。当初、この現象について重視してはいなかった。最近になり、このことを依頼していた数人の学習者が、情報を収集することを先送りしており、何の進展もないことに気づき、改めて“当地の邪悪を暴露する”ことは、簡単な事ではないと感じた。交流の中で、法に基づいて認識してもらい、真にうまく行い、法を正す過程についていくことが、当面の急務であるということが、ますますはっきりと感じられた。

師父は評注の最後に“大陸の大法修煉者と新しい学習者全員が皆このことについてよく行うよう希望します。”と説かれた。一回目に読んだ際、強く脳裏に残った言葉は、“皆”と“新しい学習者”だった。当初考えたことより、より重大であると感じた。しかし、どれほど重大であるのだろうか。

皆正法が既に最後の所に至ったことを感じており、迫害は中国大陸で失敗の路を辿っている。であるならば、“当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する”ことは、正法の大いなる勢いが現れる前に、学習者が積極的に働きかけ、邪悪を分断し残余のものに向けて、致命的な一撃を与える機会であると思う。さらに、深く細部にわたり真相を伝えることにもなり、広範に衆生を救い済度する過程ともなり、悪しき人を罰する際の基礎を形作るものとなろう。

修煉の角度からみたならば、大陸の学習者にとって、人間の表面を突破し、真に自我を放棄し、全体に溶け合い、法に溶け合う試練なのではないかと思う。大陸の学習者にとっては、厳格なる関であり、また、全体の向上を速く推進するものでもあるとも思う。

“当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する”ことをどの程度まで行うことが出来るかは、この地の学習者全体の修煉レベルが反映されていることであると思う。師父の説かれたことをどのように捉え、その意義を認識するかが、よく行えるかどうかのポイントではないかとも感じる。従って、交流は最も直接で有効な一つの方法であると思う。

この情報収集活動に関しは、当初日常的なトラブルと妨害で出くわし、上手くいかなかった。これらの妨害は、認識の不足というものだけではないと感じる。師父は、中国大陸の大法修煉者は一億人ということをしばしば説かれていた。ということは、この一億という粒子は、今日の法を正す中において、その発揮すべき作用も按配されていることであろう。

大法学習者は、それぞれの環境と職業をもって生活をしている。旧勢力は、正法の中で大法修煉者を“試し”、正法を破壊する目的に達するため、法を得た学習者一人一人の細密に至る妨害の按配をしており、その周囲には妨害要素も存在していることであろう。と言うことは、学習者を迫害する人物の周りにも、それを良く知っている学習者がいるはずである。ならば、迫害加担者の情報を得るのは、実際には容易いことであり、その加担者と関連する学習者であれば、収集可能であろう。

もし、その加担者の状況を良く知っている学習者が、表に出て法を証明しておらず、負うべき責任と使命について認識できず、今日の意義の重大さについて認識できていなければ、他人にやってもらうしかなく、ある程度難易度を増すことになるのではなかろうか。そうであったにせよ、遣り遂げなければならないと思う。この最後の時にも、師父は慈悲で学習者一人一人に、新しい学習者にも機会を与えられていると思う。

最近、当地の学習者は、迫害加担者の追跡調査に尽力しており、民衆に真相をはっきりと伝えると共に、正法機縁の最後の瞬間を見逃すことなく、より多くの学習者が動き出し、参加、交流し、溶け合い、共に向上できることが、“当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する”ことをよく行うためでもあり、また、この事は必ずよく行うべきであると思う。