全く新しい宇宙の生命の角度から正法と修煉を見る
文/大陸学習者
【明慧ネット2003年11月29日】 この文章は、自分が法を正す修煉の中で体験したことを、皆さんと交流するために書いたものです。
もし、新しい宇宙の角度から、自分の生命の歴史を振り返ることができたとしても、それは滅亡に向かうことが定められた一つの過程であり、成・住・壊・滅という循環の中での無数の泡の中の一つに過ぎないことでしょう。生命の希望と未来は、師の正法からはじまったことからだと思います。師の説かれた“貴方たちの生命の不滅な永遠”がどういう意味であるのか分かったような気がします。
かつて、宇宙にはこれほど美しく神聖かつ純潔で永遠な生命はなかった、かつてはなかった。当然、外形では過去の生命と似ているところがあるのかも知れません。もし、人は神と同じ形象を持っていたとしても、神と同じとは言えないことでしょう。このことから、師尊は殆ど私たちを“再び作り上げた”のだ、私はこれについて認識できたとき、涙を流した……
これは如何なる一つの大規模で、あらゆる宇宙の智慧を超える工程だろう、「良き部分を残し、悪い部分を除き」《転法輪》、旧い宇宙が消滅に向かうとき、私たちを旧い宇宙の純潔、美しさよりも素晴らしい新しい宇宙に入れるようしてくれた、これは根本的にこの宇宙の如何なる智慧も想像できないことである。
現時に至って、師尊が《佛性に漏れ無し》で教えられた、かつて修煉者たちによく引用された法、「更に皆さんに教えますが、実は皆さんの以前の本性は、自分の為私の為を基にしたものであり」を少し理解できた。
新しい宇宙の角度から、旧い宇宙で発生したこの巨大な難を見ると、まさに「心に慈悲を生み,顔は祥和の意を帯びる」《法輪佛法大圓満法》。旧勢力が作り出したこれらの物は如何なる意義も持たなく、成住壊滅の中の生命は、絶対自分の壊滅に向かう運命を変えることができない。過去の無数の災難のなか、このような努力は数え切れないほど多く、全てが水の泡となり、雲散霧消した。
実際、過去の宇宙の歴史の中には根本的に真の“慈悲”がなく、さらに真の“修煉”はなく、新しい宇宙の角度から見ると、それらの全てはただ成住壊滅のなか生命が壊滅に向かうことを伸ばそうと試みただけに過ぎない、それらの全てを“修煉”の努力と呼び、根本的には如何なる問題も解決できなかった。
なので、大法修煉者の“慈悲”は旧勢力のその概念ではなく、私たちは真に師父の法を正す過程に順応し、協力し、自分の衆生を壊滅から救っている。師父が法を正す前、誰がこの生命に対してもっとも大きく、最も恐ろしい問題を解決できたのか? もし大法修煉者の衆生を救い済度することを“慈悲”と言うのなら、過去のその慈悲の概念は只の慈悲の願望に過ぎないのではないか? 当然、宇宙の無数の神と衆生はみな師父が“慈悲”と言っているが、厳しく言うと、その言葉は根本的に私達の偉大なる師尊に使われるにはふさわしくない、しかし、師尊は衆生がこのような言葉を使って、彼らの生命の創始者を形容し、描写し、賛美し、感激するのを許している。
新しい宇宙の角度から見ると、法を正す中には“返本帰真”と“家に帰る”概念はない、旧宇宙から新しい宇宙にいたることがどうして“帰る”ことなのか? ふさわしくない例になるが、もし私たちがもともと住んでいたところは安普請の家だとすると、現在あそこは連綿とした金色や青緑色に光り輝くビルに変わっている。もし私たちがもともと住んでいたところが荒涼としたはげ山だとしたら、現在は鳥がさえずり花が香ること炉に変わっている……。(この例は実にふさわしくない、それは本質的、根本的な差異があるからである。) そしたら、貴方はここが貴方の元の家だといえるのか? ここは貴方の故郷なのか?
新しいう宇宙の角度から見ると、私は“私”がどうしてこれほど捨て去りがたいか分かった。実際、多くの修煉者が“私”について、如何にもっと純粋で、清らかになれるか、議論してきた。私の個人の理解から見ると、一部は“私”の中で“私”を切り捨てている。それは彼が純粋で清らかになりたいその一念の源が不純だからである。
私たちは異なる大窮の高いところから降りてくるとき、“返本帰真”の一念を持っており、すなわち旧宇宙生命の“仏性”を持っていた、無数の次元での転生と低次元での輪廻を幾度も経験したが、この一念が消えてなかった。師尊も我々のこの一念を大切にしてくれた。しかし、法を正して今日に至るまで、只この一念では絶対いけない。当初、我々はこの一念で大法に入ったが、今日に至って、我々は再びこの当初の一念が本当に私たちに対する師尊の要求に合致しているのかを詳しく見る必要がないか?
生命はみな滅亡に向かいたくない本能を持っている。生命は同じく原始の美しい本性への懐かしさと遡及を持っている。それらは異なる次元の生命の中で現れると、旧勢力が自分の観念を固守し、大法への同化を断り、大法を通じて“滅”の災難から逃げようと妄想し、一部の大法修煉者は過去から持っていた“先天の美しい境界”への懐かしさと憧れを抱いで、大法のなかでこの願望を実現しようと努力している。本来の境界に戻っていこうとしている、すなわち多くの学習者が述べた“家に帰る”のだ。
実際、これらの“本能”、“懐かしさ”、“願望”、“先天の美しい境界”、“家”の全て、ひいては旧勢力の生命のあの“返本帰真”の一念も、成住壊滅の機制の中で作られたのではないか? 何が家で、どこがあなたの家なのか? よく考えるべきではないか? これらのすべてはまるで師父が説いた“放棄できない夢のような幻”で、新しい宇宙の標準と比べると、そのこと自体が不純で円容できなくなっており、このような念頭を持って自分を清浄にしようと思い、“私”をなくそうとしても、泥水で体の泥を洗うのと何が変わるのか?
旧宇宙に対する全ての幻想と執着を捨てよう、根本的に我々の想像の中の“先天の美しい境界”は存在しない。新しい宇宙の基準と比べると、それらの全て、所謂“美しさ”は全て漏れがあり、既に宇宙歴史の過去となっている。“法を正す時期の大法弟子”にとって、師尊が使用されたこれらの旧宇宙で体現された文字、言葉のその背後は全く新しい宇宙の無限な内容と境界標準だ!
これは極めて厳粛な問題であり、全く新しい宇宙の中で天地開闢の新しい自覚した者として、私たちはこれについてはっきり認識できるのか?
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