何の為にやって来たのか?
【明慧ネット】昨日の日中私は、労教所へ周辺の様子を下調べに行き、スプレイ・ペンキで法輪功の真相を書く場所を選んだ*。帰宅後、夜中にそこへ行く計画を立てた。
この決心をするまでの過程で、私は自分に系統的な質問をした:
「怖がっているか」「いや、怖がっていない」。(私が真相を書くことに決めた場所は、労教所の正門の近くの壁であった。労教所には邪悪が居るというのが、私がそこへ真相を暴きに行く理由であった)。
「捕まると職を失うが、それが怖くないか」「いや、怖くない」。
「家を捜査されるのが怖いか」「いや、怖くない」。
「死を怖がっているか」、私は答えに師父の詩を暗唱した、「生死に執着無く、法を正す路を堂々と歩く」(正念正行)。私は生死に執着なく、法を実証するために行く。
「労教所での酷い拷問を恐れるか」「死をも恐れないのだから、他の何をも恐れない」。
「真相を書いているところを見られたら、逃げるか」「私は逃げない。見られても書き終える」。
「逮捕されたらどうするか」「逮捕されたなら、留置所から正々堂々と立ち去る。労教所へ送られたなら、そこで法を実証する」。その時、「逮捕されたなら」という質問が絶え間なく湧き出た。それから、自分はそこから立ち去る、と想った。その質問が何度も脳裏に浮かんだ後、そのような想いは正しくないと、気付いた。どうしてこの様な考えを持つのか? 私は逮捕されることはない。逮捕されたならといつも考えているなら、それは旧勢力の按配を認めたことになりはしないか? 私は逮捕されないのだから、「逮捕されたなら」という質問は存在しない。私は法を証し、邪悪を暴きに行くだけだ。私は逮捕されない。その様なことは私には起こらない。師父の言葉が再び浮かんだ: 「生死に執着なく、法を正す路を堂々と歩く」.
夜になって食事をしてから、私は自転車で労教所へ出かけた。雪が降った後の東北の路は滑りやすかった。途中で私は何度も転んだ(概して私は自転車に乗るのが上手であったが、後で想うと、心態が平静でなかったからであった)。更に数回転んだ後、私は自分に言い聞かせた、如何に危険であろうと、私は法を証し、邪悪を暴きに行くのだ。私は法を師としたい。何しにここまで来たのか? 師父を助け、法を正す為に来たのではないのか? 常人の苦難に耐える為に来たのか?労教所へ、威徳を築き、テストを受けに来たのではないのか? 私の理智が言った、後退せずに前進するようにと。これらの事を考えながら、私は目的地に到着した。
労教所に着いたとき、正門に対面して建物があるのが見えた。その建物の側面に、丁度好い壁があり、そこに書くことにした。スプレイ・ペンキを取り出し、スプレイし始めた。文字が大変大きかったので、一筆毎に何度もスプレイしなければならなかった。始めは心が平静でなかったが、次第に落ち着いて来た。「法輪大法好」と五文字を大きく書いた。そして自転車に乗って帰ろうとした。丁度自転車に乗った時、オートバイがやって来るのが見えた。看守人に違いなかった。(労教所は郊外にあり、夜には滅多に人が通る事はないのと、そこには労教所に通じる細い路一本しかなかったので、これを知っていた)。オートバイの電気がついており、私の方に向かってやって来た。その時、私の心はとても平静で、動揺しなかった。オートバイの方に向かって、私は自転車を走らせた。オートバイに乗った人は何の反応も示さなかった。私は労教所から遠のき、帰りは一度も転ばなかった。心の中で、師父の慈悲と保護に感謝した。順調に帰宅出来た。
後で考えて見て私は、正しい路を歩く限りは、問題が起こらないという事に気付いた。如何なる心態にあるかが大切である。各同修も正しい心態を保つよう、望む。私達は何の為に来たのか? 常人生活をする為に来たのか? 旧勢力のテストを受けに来たのか? それとも師父が法を正すのを助けに来たのか? 各同修は、私達がやって来た目的をよく考えて見るよう、希望する。
以上は私個人の認識である。認識不足があれば、正して戴きたい。
* 新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等の利用が許されず、法輪功学習者達は様々な、時には普通では考えられないような方法で、中国の人々に法輪功迫害の真相を伝える。
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