日本明慧


誤解され、傷つけられても、善でなければならない

2004年1月9日 文/寰平

【明慧ネット2004年1月9日】複雑で困難な迫害の状況下における修煉の過程において、学習者同士でも誤解を招き、その結果予期せぬ事態を招くことは、当然あり得ることです。

  例えば、他の学習者があなたのことについて、話をしたことが原因で、あなたは逮捕され、家財を差し押さえられ、刑罰を受けたとします。このような時、平常な心で、その学習者に、対応することができるでしょうか?

また、不法な留置や拘留から、毅然として出てきたのにも関わらず、あなたが買収され、警察に荷担している等と言われ、周りの学習者仲間に、警戒心を持たれます。このような時、心性を守り切ることができるでしょうか?どのような対応を取るべきなのでしょうか?

あるいは、大法を実証するために、他の学習者の協力を必要としているにも関わらず、詳細な状況を伝えることができないという場合、疑われたり、噂が流れたりし、支持してくれるはずの学習者でさえ、動揺し理解してくれなくなります。

更に、あなたの仕事のグループは、安全の問題に十分気を付けていますが、他の学習者は、それほどでもなく、あるいは執着心があるがために、環境を乱し、損失をもたらすかもしれません。これらの情況に出会った際、法の上での理性的な認識と寛容な心理状態に欠けていたならば、うまくやり遂げることができないでしょう。隙に乗じられ、矛盾が激化し、学習者間に隔たりが生じ、わだかまりとなるかもしれません。

一人ひとりの修煉の道は異なるものでしょうが、わたしも、上述のような経験を経てきました。

わたしは、三度不法に拘禁されましたが、これは他の学習者から、情報が漏れてしまったことに基因するものでした。しかし、戻ってきてからは、何もなかったかのように、以前と同じように付き合いました。

実例を挙げますと、一人の学習者と共に北京へ行きました。わたしは何事もなく帰ったのですが、一緒に行った学習者は逮捕されたのでした。彼の口から、わたしの名前が漏れてしまったために、2ヶ月近く拘留されました。そのため、彼の行為は非難を受け、疎外されるようになりました。わたしは、拘留を解かれた後、すぐに彼に会い、自分の過ちを責めるのではなく、めげないようにと励ましました。わたしの様子を見て、彼は必ず修煉を成し遂げる、と涙ながらに言いました。わたし達は、修煉をしているのですから、寛容できない何ものも有ってはならない、と思います。

その後、何人かの学習者と共に、真相の資料の配布を行いました。すると、わたしが“警官の手で釈放された上、大法の仕事をやっている”、“スパイかもしれない”という噂が流れました。当時、この影響は大きく、8〜9ヶ月間も続き、広範囲に広がりました。しかし、善意を持って、ねばり強く接していくことで、理解を示してもらえました。

他にも、いくつかの事がありましたが、わたしとしては、これらのことについて、恨みを持ったことなどはありません。この一連の修煉の過程を振りかえり、自分の受けた感銘と体験からの認識について、以下に記述してみます。

まず、原因を自分の中で探すことは最も重要と思います。問題に出くわした際、特に不当な扱いを受けた場合、自分の中で足りない部分を探さなければならないと思います。これは、とても苦しく、難しいものですが、必ず必要なものと思います(旧来の観念は、他人を変えることばかりであり、自分を変えようとはしません)。

わたしは、他人に対し誤った対応をしていないか、これらに関連した執着心、名誉と完璧を求める心、自分のことを他人に言わせないなどの執着がないかを探しました。わたし達は、修煉において、偶然というものはなく、物事は自身に対して現れ、自分自身が修めるべきものである、ということが分かっています。自分の中に原因を探していけば、必ずや“柳暗花明にまた一村”と言う様に、新たなものが見えてくると思います。

やはり、相手に対し、寛容であることが大切と思います。相手が(ある種の執着心の影響を受け)行き過ぎたり、辛辣であったりした場合も、必ず穏やかな心理状態で対応しなければならないと思います。常人のような論争に陥るべきではないと思います。もし、そうであれば、問題は終わることなく、尾を引いていくことになるでしょう。

もちろん、修煉の過程の中で、把握し難いことが多々ありますが、言われ無き誹謗を受けた時こそ、法の上ではっきりと、見分けることができなければならないと思います。理性的に、情に振り回されることなければ、相手の大法のために担っている、輝いているころが、見えて来ると思います。寛容な心と受け入れる気持ちが、自然に湧いて来ると共に、自ずと相手を許せるようになると思います。

第三は、妨害と破壊を一掃しなければならないと思います。修煉する人が法から離れ、あるいは執着心が生じてしまうと、隙に乗じられると思います。そして、学習者間に隔たりが生じてしまいます。これは、背後の要素によるものであると思います。それを一掃すれば、表面上の現れも変わってくると思います。

不当な扱いを受けたとしても、その相手も修煉の過程にあるので、簡単に結論を出してはいけないと思います。わたしは、労働教養所の1年間で、道を逸れた13人もの人から、交替で転化工作を受けました。ある人は、何回も繰り返して行いました。当時、彼らの言っていることは、とてもよこしまで、わたしは厳しく非難しました。今現在、その内の大多数の人は、再び正道を歩み始めているようです。中には、とても良く修煉をしている人もいます。

当時、労働教養所内のリーダー格である道を逸れた人が、多くの悪しき事を働きましたが、市内の学習者は、みなその人を知っていました。ところが、一度の話し合いで、目が覚め、師父の法像を見上げて、大きな声で泣き出ながら「私は間違いました。一体何をやっていたのでしょうか!」とひどく後悔しました。以後、彼女は共に法を学び、2年が経ちましたが、とても精進しています。

また、人の苦しみの中における、ある種の現われを見て、直ぐに結論を出してもいけないと思います。全面的に見て、最後まで見届ける必要があると思います。大法と大法の弟子に、挽回することのできない巨大な損失をもたらした場合は、宇宙が判断を下すことでしょう。大法がわたし達に求めているのは、純粋な善であり、常人の心を持って憎んではならないと思います。

師父は“今日彼が良く行わないと、あなた古い勢力はまだ迫害するでしょう?私は明日また彼にやらせます。必ず彼(彼女)を良く行わせます!(拍手)実践は証明しています。大法弟子が益々理性的になり、益々はっきりして、益々良く行っているのでありませんか?益々確固不動ではありませんか?!(拍手)最後にあなたは本当に確固不動になるのであれば、あなたの以前の全ては只修煉の過程の中の現われに過ぎません。実際のところ、このとおりなのです。”とおっしゃいました《2003年元宵節講法》。

師父が要求されているように、鋼鉄を溶解するような善の心を持って、全てに接すれば、学習者に対する不当な扱いなど、起こるはずがないと思いますし、不当な扱いが生じたとしても、解決は容易なことであると思います。

以上は、あくまでも、個人の経験に基づくものあり、ご意見ご指摘をお願い致します。