日本明慧


法を学んでいく中で“私”と変異した考えを切り捨てる

文/大陸の学習者

【明慧ネット2004年1月23日】わたしは、かなり長い間一種の迷いの中に居ました。

確実に“三つの事”をやっていると思っていましたが、ある時、長い間一つの段階に留まっていることに気が付きました。明らかに、自分に問題があるのにもかかわらず、問題点を探し出せませんでした。「誤った考えに固執して悟らない」ということを深刻に味わいました。

当時は、師父から啓示を頂きたいと思っていましたが、むろん師父は黙されており、お言葉など頂けませんでした。また、師父の像を直視する勇気もありませんでした。たまに我慢出来なくなり見上げると、いつも全身が震えました。思わず「わたしには、意気地がありません」と声を出していました。

ある日、師父の像を見つめている時、突然心の中に師父の声が聞こえました。「自分が大法の弟子であることをしっかりと覚えなさいと」わたしの心は震えました。最近、明慧ネットにおいて、大法は利用されてはならない、根本的な執着を切り捨てようなどの体験や交流を見て、強く心を打たれました。そして、必ず自分を妨げている問題を探し出さなければならないと決意しました。

何かを見つけたと意識した時には、何らかの妨げを受けているようにも感じ、自分の“痛み”を守ろうとしましたが、正念をもって、前進することが出来ました。深く隠れていたものが、全て現れてきました。法を学ぶ中で“私”と“我”を混ざり合わせてしまうことは、大法に求めるものがあるのだと思います。

一つは、“学ぶ”ということのために学んでいました。表向きは、法の勉強に厳しく取り組み、怠けることなどありませんでした。ところが、潜在的には勉強しなければならない、取り残されてはいけないと思っていました。これは“私”と“我”のために法を学び、法の勉強に取り残されることを恐れていたからです。その結果、いつも一つの段階の中を徘徊し、前へと向上してはいませんでした。

二つは、“量”ということのために学んでいたのです。表向きは、自分に厳しく要求し、転法輪を4日間ごとに、九講まで読み終えました。一方的に「学びさえすれば変わっていく」という意味を解釈し、毎日決まった量を勉強し終えないと心が落ち着きませんでした。それこそ死に物狂いで“進度”を追いかけました。潜在的に自分の“変わる”ことを法の勉強の中に求めていて、“私”のために法を学んでいました。その結果は、良くならなかっただけではなく、心性上でかえって現れるべきでない状態が現れました。例えば、自転車に乗って遭遇した、ちょっとしたトラブルに遭っても喜ばず、心の中でずっと相手に文句を言いました。

三つは、“得る”ということのために学びました。一心に法を学ぶことを分かっているかのように、自ら専念して法を勉強することを求め、心を持って、気持ちがそれたらやり直しました。それは、“得る”ためでした。法の中で昇華する機会を得たいと思っていました。“私”のために法を学んでいました。その結果、心を使えば使うほど上の空となりました。上の空に、なればなるほど得られるものはありませんでした。長期に渡って耐えられないほどの眠気を催す現象が現れました──腰を下ろして、法の勉強を始めると居眠りしてしまうので、いつも大声で朗読したり、立ち読みをしたり、歩き読みなどに頼って、睡魔を追い払おうとしました。このように長い間受動的に、法を学んでいて得られたものは少なく、考えてみればすぐ分かることと思います。

四つは、“功能”のために学んでいました。表向きは、功能を求めず、“修は己にありて、功は師にあり”という道理を分かっているつもりでした。ところが、潜在的にはこうではありませんでした。功能に関する師父の講法を読む時には、無意識になぜ私にはないのか、何時になったら私にも現れるのだろうか、と念を動かします。その結果、しばらくの間学習者との交流の中では、功能に関する文章にばかり興味を持ちました。このような“私”と“我”のための勉強は、いつの間にか、法から引き離されていくことになりました。

五つは、“新しい”ということのために学びました。表向きは、大法は深淵で、豊かな内涵があると分かっているつもりでした。法に関する勉強の重要性を知り、絶えず向上すればこそ、はじめて大法対して新しい悟りができるものと思い、力を入れて法を勉強しました。ところが、潜在的にはこのようではありませんでした。より多く法を勉強するよう自分に要求する反面、法の中に更に新しい内涵を得ようと思っていました。このような“私”と“我”のための勉強のその結果は、いつも九講まで読み終えても、なんら新しい収穫はありませんでした。

六つは、“惜しむ”ために学びました。表向きは、正法の勢いの緊迫を感じて、常にしっかり時間を逃さずに、多くないこの貴重な時間を大切にして行くと自分に注意しました。ところが、潜在的には一種の恐れる心があって、周りから自分が取り残されることを恐れ、自分が追い付かないことを恐れ、それを惜しんでいました。その結果、“私”と“我”のために勉強したため、さまざまな正常ではない現象が現れました。毎日決まった量の法の勉強を完成させないと心に大きな負担を感じます。法を勉強して新しいものが得られなかったら、申し訳ないと思っていました。学習者の交流会を見ると、自分の不足に不安を感じました。とても大きな執着心に妨げられていたのです。

これら感じて、とても驚きました。どんなにか危険なことなのでしょうか。深く自分の考えを掘り下げては、良くないものを露出させようとしました。しかし、“無いよ”とある声が邪魔をしているかのようでした。わたしは“違う!”と心の底から叫びました。この時、師父のお言葉が心の中に響き渡りました「いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔でも私の心を動かすことはできません」《転法輪》。自分がとても大きくなっていくように感じました。体中に力が満ちていくのを感じ、心の底からの涙が湧き流れ出ていきました。この瞬間、根本的な執着をつかみ取ることができました。

わたしは大法の中で得たいと思っており、また常人の名、利、情を切り捨てようとは思っていませんでした。一方では“精進”し、法を学んでいましたが、一方では常人の中の名──例えば、学術上で後進を指導しては、相手の感謝と尊敬の言葉を心地よく感じていました。その中の何人かが、特別に良い成績を修めた時には、心の中で自分のやったことに魅了されていました。常人の情に執着していました──暖かい家庭を求め、家族全員の全てを心配し、安逸な生活に対する求めが絶えず出てきました。

その結果、法を学ぶのにも心が落ち着かず、座禅を組んでは足が痛くてたまりませんでした(以前は、一時間前後続けられましたが、このような情況下、ある時には10分も出来ませんでした)。心性は止まることなく下へと滑り落ちました(何元かの電話料金のために、相手に文句を言ったこともありました)。これらの全ては、自分が迷いの中で悟らず、“私”と“我”のために法を学んだ結果であり、このようなものの存在を許したため、変異したものが長期間に渡って、わたしを支配することができたのです。

師父は“壮大な佛の慈悲”で、救って下さいました。そして、明慧ネットにおける学習者の体験交流を閲覧する機会を与えて下さいました。その恩に報い難く、合わせる顔もありませんが、唯一出来ることは、直ちに立ち上がり、師父の教えを肝に銘ずることであると思います「大切にして下さい!神の誓いは実現しています。大切にして下さい!これはつまりあなたが探していたものです。大切にして下さい!法はあなたの目の前にあります」

《ロシア語版の〈法輪大法〉の題詩》。この永久なる縁を大切にし、大いなる目標に向かい勇猛邁進し、永遠に振り返ることはありません!

以上は、わたくし個人の認識であり、皆様のご意見ご指摘のほどお願い申し上げます。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/23/65313.html