日本明慧


私は“迫害事実”を読む

文/鄭岩(アメリカ)

 【明慧ネット2004年1月24日】明慧ネットの“迫害事実”欄には、毎日数多くの邪悪を暴露する文章が載せられている。長い間、相当高い比率を占める海外同修はいろんな理由で、この部分を完全に読まないか、或いはタイトルだけ読み、又修煉者の切磋琢磨した部分を読む。迫害を直接暴露する文章に対して、他の方面ではよく精進し、非常に威徳を積んできている一部の同修が、迫害文章を読むと、心が苦しくなる、息が詰まると感じる、或いは又見ていられない等として消極的な態度をとっている。私は同修のこのような部分の状況に対して、いくつかの見解を述べてみたいと思う。

一、 正念を強化し純粋にすることは、修煉において終始貫くべき事

 師父は常に私たちに正しい念で正しい行いをするよう要求されている。然し法を正す要求に照らすと、私たちが今日この程度に達したのは一日の功ではない。すなわち、私たちの正念は修煉の中で生まれ、どんどん強くなり、純粋になる過程を経験した。最初から持っている状態で、それからその状態を保つことではない。この意味から言うと、圓満して自分の所に帰っていない限り、私たちは至るところで引き続き正念を強め、純粋にする問題に直面する。

 修煉者として、法を学んでも法が頭に入らない時は修煉者の状態を離れた時であり、そうすると“迫害事実”を回避し、また修煉中の抜け穴も反映される。早速調整しないと修煉に影響を与える。自分に責任を持つなら、放任してはならない。同じく、修煉者の心態は常人社会に反映される。修煉者でさえ“迫害事実”の文章を回避しようとすると、常人は尚のこと回避するのではないか?衆生を救う過程でのこの障害は、一部は私たち修煉者の正念が強くない時無意識に作ってしまう。だから私たちは軽く見てはならない。今の時期になって旧勢力に隙に乗じられ、損失を拡大させてはならない。

二、 修煉者に対して、如何なることもみな良いことに変わる

 明慧ネット上の迫害事例は、毎日いつも非常に数が多い。同修はある時は自分を傍観者とみなし、人心を持っている。これほど多くのタイトルを見ると、正しくない念、考え方が現われる:どうしてこんなに多いのか?どんどん多くなっているとは、邪悪はどんどん取り除かれてどんどん少なくなっているのではないか?従って、正念が強くない状態が現われる。

 実際、数が多いのは悪いことではない、邪悪が未だ思う存分気が狂っていることの表われではないかもしれない。実際みなが詳細に読むと、毎日明慧ネットに載せられる多くの事例が、みな過去数年間に発生したことで、新しい事例は只一定の比率を占めているだけだと分かる。これは何を意味しているのか?

 劉成軍さんが迫害により死亡した後、海外、国内の修煉者は次から次へと追悼活動や記者会見を行ったり、海外中国領事館に行って抗議したりした。これらの活動について明慧ネットは大量に報道した。国際社会でもとても大きな反響を巻き起こし、非常に長く沈黙していた海外の一般メディアも今回は沈黙を破った。また、本来ずっと増加する傾向にあった死亡事例が特に突然減ってきた。これは又何を意味しているのか?邪悪な首魁とその小さな集団は暴露されるのを怖れている!しかも中国政府内部の他のメンバーは、その邪悪の首魁の代わりに犯罪に対する責任と国際圧力を引き受けるだろうか?そうはしないだろう。従って邪悪を暴露することは、邪悪を取り除き、迫害を減らし、迫害を制止させることになる。

 大法修煉では、実際如何なることも良いことに変わる(多くはそれ自体が良いことである)。個人修煉の段階のみならず、法を正す時期でも同じである。例えば邪悪の首魁が頑としてやった迫害、その動機と手段は最も悪い。然し彼らがやった以上、私たちは彼らがしたことを私たちのために使いたい。出来る限り損失を減らすと同時に、彼らがやった悪事を暴露して、修煉者全体の向上、威徳の樹立に役立たせ、世人を覚醒させる教材として、邪悪を取り除く利器として使える。この意義から見ると、“迫害事実”が大量に暴露されるのは良い事ではないか?

 旧い事例が時に大量に暴露されることは、具体的に何を意味しているのか? 迫害を受ける過程で迫害事例を大量に暴き出す、しかも四年余経っても少しも変わりなく、堅忍不抜(堅くこらえ忍んで心を動かさぬこと)である。このこと自体が人々に:修煉者の“真善忍”の信仰、及び反迫害に対する自信と意志は動揺しない:ということを証明している。

 全ての事例の出現は、江沢民の後をついていく迫害に参加した悪人らに:貴方たちが犯した犯罪行為は、新、旧共に、全て続々と記録されている;貴方たちの罪に対する責任は必ず償わなければならない。逃れることはできない、と厳しく通告している。  一部の大陸の同修は過去の二、三年の間、非合法的な監禁から正正堂堂と抜け出した。これはまさに法を正す過程が推進している一種の体現ではないか?同じく、これは又邪悪が大量に取り除かれた後の、世間での一種の表われである—彼らの勢力は、もうそれほど多くのところを覆えなくなってきている。

 一部は過去に法を正すことについて認識がはっきりせず、或いは怖がる心と執着があり、迫害事実を言わなかった修煉者が現在邪悪を暴露し、真相をはっきり伝えている。これもまさに法を正す過程が推進している体現である。

 その他に、一部の人はずっと表に出られず、常に法を正す中での修煉を回避していた修煉者が現在家から捕えられていき、迫害を受けているかもしれない。これは実際これらの人に最後に選択する機会を与えるのであり、もし意志が固く、この難関から抜け出せるのであれば、数年前に選んだ壊滅の結末が避けられる。

 又他の状況があるかもしれない。然し主要なのは正面的な情報が非常に多く載せられていることである。当事者である修煉者自身の修煉が原因で迫害が発生したとしても、それは正念が足りず、怖がる心、人間に対する執着を手放せなかったとしても、迫害を受けた詳細な情況を暴き出すと、邪悪を取り除き、修煉者への圧力を減らせるし、損失を減らせる;又他の修煉者が法を学ぶという前提条件の下で、修煉の角度からこれらの事例から経験と教訓を取り入れ、邪悪に隙に乗じられなくなりプラスになる。

 大量な迫害事例の出現は、新旧共に、私たち海外修煉者にもっと多くの機会と便宜を与えられ、引き続き異なる角度から、異なる常人に大量に真相をはっきり伝えることを示す。修煉者は心を込めれば、この類の資料はみな異なる使い方があり、数多くの問題を説明できる;修煉から言うと、私たちに更によく法を正すことについて認識させ、心性を高め、法理の認識について明らかにさせ、さらに多くの衆生が救われる。

邪悪を暴露する意義は重大で、意味は豊富で、上記の数点だけで概括できない。以上は只例を挙げて一つの正面的な考えの筋道であり、正念で問題を考える筋道を説明しただけである。足りないところについては皆さんの補充と指摘を願う。

中国語サイト:http://search.minghui.org/mh/articles/2004/1/24/65715.html