日本明慧


大法のウエブサイトの仕事における修煉がもたらした無私寛容の心

欧州大法弟子筆

 私は2001年に法輪大法の修煉を始めた。それは英文の圓明ウエブサイトが開始したのと同じ頃であった。そして私はその仕事を手伝うことになった。私の人生を通じての経歴がもたらした多くの事が、このプロジェクトに参加するに必要な技能を私に与えたことに気付き、師父が私をこのように法を正すことに参加するよう按配したことに、形容し難い感謝の気持を持った。

大法のウエブサイトの仕事が始まったばかりの頃に、深く感じさせられたことの一つは、この仕事には名声というものが無いと同様に、報酬も肯定も無いということであった。何故なら殆んどの人は、私達が携わっている仕事について気付いてもいないのだから。街でビラ配りしたり、人々に話しかけたりすることは、その効果をすぐに見ることが出来る。ウエブの仕事では、読む人がいるのかどうかさえ分からないし、その効果を見ることなど尚更である。だから私は、法を正すことで効果的なことをやっているということの、結果や証拠への執着をすばやく放下しなければならなかった。

これに関し、否定的な思いが脳裏をかすめることがあれば、師父が必要な人々をウエブを見るよう導き、その人達が真相を知ることが出来るのだから、私は師父が按配したことを良く行なえばよいのだと、自分に言い聞かせる。

ウエブが始まった初期には、チームメンバー達はそれぞれ責任者と良い関係を保っていたが、チームメンバー間の交流は殆んどなかった。これは責任者達を、チームメンバー間の情報交換中心部のような立場に置くこととなり、責任者達にとって大きなプレッシャーとなった。チームメンバー間には交流がなかった為、修煉の環境はなかった。初めて私が進み出て、チームメンバーで以前話したことがなかった人に電話した時には、私達の間の大壁が打ち壊されたように感じた。この法を正す時期において、話し合い、協力することは、表面的に見える理由からも、又見えないかも知れない理由からも、非常に重要であることに私は気付いた。私が誰かに電話すると必ず、その人が私の修煉にとって聞く必要のある重要なことを言うよう、師父が按配した。法を正す為の仕事を共にすることは、一束の一人一人独立した同修が同じ仕事をしているだけではなく、実際、共に修煉し、向上していることに、私はまもなく気付いた。共に交流し、向上することによって、大法のウエブの仕事を、修煉の環境の場にすることは重要である。そうすることは、私達が分散した粒子ではなく、不壊の一体として働くようにする。

一度文章をシステムにアップロードしようとしたが、うまく行かないことがあったのを覚えている。私は正念を発し、うまく行ったように感じたが、依然としてダメであった。自分の心性には何も問題が見つからず、何故この障碍を克服出来ないのか、理由が分からなかった。私は他のチームメンバーに私のその日の文章を掲載してくれるよう、頼まなければならなかった。しかしその前に、チームメンバーが一緒に正念を発しようという提案があった。私達はそれを行ない、突然全てはうまく働いた。

私達一人一人が独立的に如何にうまくやっていると感じていても、時には共同で一つのチームとして克服しなければならない事があり、うまく協力し、交流するなら、威力は非常に大きいことに気付いた。初めてウエブチームが集会したのは、チームの一体としての大きな前進であった。私達は共に法の勉強をし、交流し、その効果は非常に大きかった。電話会議とは異なるものがあり、一部の同修はかなり長距離を来なければならなかったが、以来私達は定期的に集まるよう努力して来た。

2002年、私は修煉における執着の問題を度々経験した。チームの同修に話すと、彼らも同様の問題があることが分かった。しかし最近になって、事情が少し変化したと感じた。例えばチームのある同修は、全く良く行なっていなかった。自分の仕事を全然やらず、やればその質はひどいものであった。私は彼の分を埋め合わさなければならず、それは私にとって大きなプレッシャーとなった。修煉者として、私達は相手のことを先ず考え、寛容でなければならないということは分かっていたが、これは法を正す仕事で大変重要なので、私はその同修に対して厳しく要求する権利があると感じた。実はこれは私が自分の基準を下げたことの現れであった。師父は「2003年バンクーバー法会での説法」で言った、

「しかし、修煉者にとって、あなたの心性に対する要求を高めることと執着心の放棄において、決していい加減にしてはならず、基準を下げてはなりません」

事情が如何に重要か又は緊急かにかかわらず、私達は法の基準に満たない行為に対し、言い訳をしてはいけない。この同修が良く行なわないことは、私にとって大試練となった — このような大きなプレッシャーと困難な情況において、師父の教えに従い、法に同化することが本当に可能かどうか。

時を経て、私のこの同修に対する感情は悪くなる一方で、彼のウエブの仕事も悪くなるばかりのように見えた。私は彼が役立たずで、もうウエブの仕事をやるべきでないと思うまでになった。それから私はアトランタの法会に行った同修に話した。彼は私の心を直撃するような事を言った。それは私の思考をコントロールする自己主義の層を私に見せつけた。変わらなければならないことは、外にあるのではないことに気付いた — 彼をチームからはずすべきではない。その変化は内在のものであった — 私の心はこの同修に対し、寛大ではなく、慈悲に欠けていた。この困難な時期に彼を助け励ます代りに、私は自分の困難の為に、彼に対し否定的であるばかりであった。師父が私達の為に受けた苦難を思って、私は本当に恥しく感じた。「この同修は良くない。交代させよう」という私の思いは、実際旧勢力の思いであって、彼らが大法弟子に値しない者を除くために使う策略そのものであった。

私は彼らの按配を拒絶した。自分の到らぬところを見つけ、自分を変えたいと望むなり、私は自分の心の容量が広がり、法を正す中で新しい次元を見る事が出来たと感じた。以来私は、相手を批判し、相手が自分の要求に従うことを期待するより、相手が与えてくれるものを受け入れ、全てのことにおいてこの寛大な心を持つよう努力して来た。しかし、この経験から私が学んだ最大の教訓は、私がこの同修を正しい心で見、慈悲を感じるようになった時、彼の仕事が突然進歩したことであった。私の執着と否定的な思いが、彼を滞らせており、それがチームの問題の本当の原因であったのだ。私達は個人修煉をしているのはなく、法を正す修煉であることが、本当に分かったのである。師父が2002年ワシントンDC法会における説法で言ったように、

「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」。

私達の一つ一つの考えや行動が他に大きな影響を与える。どのような手抜かりや執着も個人の問題ではない。

長い間私は多くの法を正す仕事をやって来て、自分はよくやっていると感じていた。しかし時の経過と共に私は大法の仕事をすることだけが修煉であるという、正しくない観念と執着を持つようになった。私は大法の仕事で忙しすぎ、その仕事は重要過ぎると感じた為に、内面を見て自分を変える機会を退けた。師父は私達に三つのことを行なう重要性を忘れないようにと言い続けた、自己を修め、法を実証し、正念を発する。しかしながら、表面では私はそれら全てをやっていたが、自己を修めることと正念を発することを、要求される程には重要視しなかった。それらは単に大法の仕事をより良く行なう為の、助けであると感じていた。これらの重要性を認識して、これら三つのことを良く行ない、師父の要求に従うよう最善を尽すと、心から約束した時、私は肩から巨大な重荷が下ろされたように感じた。今は私は三つのことを全部行なう重要さをよりよく理解し、理性的に平静にその為の時間を見つけることが可能で、それらは皆協調一致して働くものであり、そうして全てがうまく行くのであることが分かった。

この体験を話す機会を与えて戴き、師父と同修に感謝する。「2004年元旦、師父から弟子への挨拶」から一部を引用して、話を終えたい:

「衆生のために、大法を実証するために、神の路で精進しよう! 未来恒久の圓容とみなさんの栄光がともにあれ!」

2004年2月12日