日本明慧


読者からの手紙:或る西洋人から見た中国

【明慧ネット2004年1月30日】私には数人の西洋人の友達がいる。彼らは大多数中国に行った事があり、中国に対して非常に強い興味を持っている。私は彼らの考えはとてもはっきりしていて、問題を見る時多くの制約や複雑な心理状態がないことを発見した。

私は一度中国で長年生活したことがある。北京語がぺらぺらのアメリカの友人に聞いた:“あなたは中国にもう一度とても帰りたいと思っているでしょう。あなたは中国がとても好きでしょう?”と。私は彼の答えは必ず“当然”だと思っていた。然しそうではなかった。彼は:“はっきり言うと、私が好きなのは中国の言語、中国の文化、中国の風景、私が知り合った中国の友人達です。もちろんまだまだ多くあります。然し、それらはみなあなた達中国人の概念の中の‘中国’ではありません。それは中国人が言う‘中国’には個人の虚栄と政治的要素或いは中国共産党及び政府の要素がとても多く含まれているからです。”私は彼には彼なりの見解があると思い聞いた:“どうしてそう思うのですか?”彼は正直に言った:“私は多くの中国人に逢いました。私には彼らの中で一部の人は本当に中国の文化が或いは中国のことが好きでない、或いは関心は持っていないが、彼らには一種強烈な‘中国’を守ろうとする感情があります。また時にはその守るものはとてもよくないものであっても構いません。実際何かが好きと言うのはよくないものでさえも好きで、守ることとは違います。私はアメリカが好きです。それは私が大統領と政府を批判出来ない、或いは彼らのやった全てを必ず守ることを代表することではないのとまるで同じです。又大統領或いは政府はアメリカと同じとみなす概念ではありません。もし私がアメリカの良くないことがとても好きなら、如何に真に良くないことを是正するかに無関心ならば、私はアメリカが好き或いは国を愛しているとは言えません。もしかして自分を愛するという方がもっと適切かもしれません。私のそれに対する関心と守りは、只個人の感情と虚栄とに関係があるからです。”私はこのアメリカの友人の見解に驚いた。これは又私に、多くの中国人は中国で起きていることには一切無関心だが、一方ではまた高揚した“国を愛する心”を持っていることを思い出させた。私が具体的な事例があるかと聞くと、この友人は下記の二つの話を教えてくれた。

一度私は友人の自宅に招かれたことがあった。友人は丁度自分の旧い車を或る中国人に売るために表に書き込んでいた。その友人が“価格は書き込まないで、帰ってから少なく書けば税金が少なくなるのよ”と、不用意に洩らしたのを聞いた。このようなことをするのはとても誠実ではなく、社会にとっても良くないと思い、“そんなことはしない方が良いですよ”と言った。このようなことは中国ではとても普遍的だとは知っていたが、これは必ず変えるべきだと思った。その中国人は厳しい調子で言った。“中国の悪口を言わないでください”と。実際、私は事実を言っただけである。私は中国で、外国人であるためにショッピングする際によく騙された。私も中国にはデマと偽物がとても多いということは知っていたが、それらは私の中国に対する好感度を下げることではない。私はいつも中国人がなるべく早く、アメリカ人と同様に自由と人権を有するようになることを静かに願っており、こうなってから始めて中国はようやく公正になると思う。

ある日、私はほんの少し前に知り合ったばかりの中国の学生と歩きながら話していた。法輪功学習者達が真相写真を展示し、そこで静かに煉功している所を通った時、自分は彼らがそうしているのがとても嫌だと言った。こんな活動はここに住んでいる中国人にトラブルを招くか、或いは中国に恥をかかすことだと言った。私は彼らが中国人に招いたトラブルとは何かと聞くと、“中国政府はとっくに法輪功を禁止しました。彼らに関わると政府が私たちに面倒をかけます。もしかして自分の前途も影響を受けるかもしれない”と答えた。私は、“それは、本当に面倒を掛けているのは中国政府で、彼らではないのに、どうして彼らを責めるのですか?多くの中国人が家で、勤務先で、或いは県や市で法輪功を修煉する人がいるため、政府の懲罰を受け、一部の人はそれが原因で法輪功学習者を恨むと聞きましたが、私には理解できません。明らかに政府の遣りすぎなのに”と言いました。この学生は直接私の質問には答えてくれず、“只こうすると中国人に恥をかかすことになる”と答えた。私は理解できず、こう言いった。“中国政府がこんなに残酷に自分の国民を待遇するのは当然面目を失うことです。然しこれは彼らが話さないと面目を失わないことではありません。彼らがこうするのは只この理にかなってない面目を失う迫害をなるべく早く止めようとするに違いありません。私から見ると彼らこそ中国に関心を持ち、中国に対して責任を負うことの表現です。もし中国人がみなこうすると、中国人が持つべき自由と人権はより速く来るでしょう。彼らは既に二年堅持しました。しかも完全に平和的な方式です。これはそんなに容易にできることではありません。私は彼らに敬服しています。彼らはとても意欲的であり、また平静で、しかも政府が彼らに面倒を掛けることを恐れていません。これは決して利己的で、愚かな人には出来ないことです。彼ら自身の中国人に対する願いが以前のように幻想的ではないと感じました。中国が速めに彼らに対する迫害をやめるよう希望します。これは中国にとってよいことです。”

このアメリカの友人の見解と話を聞き、私の心はとても揺り動かされた。私は彼の中国に対する好意は心からのものであり、それに比べると、多くの私の同胞の中国に対する守りは却って自分の利益と虚栄に基づいている。実際多くの人は“国を愛している”と言いながら、国家的利益を損なっている。個人の名利のために、不本意な言葉を語るとき、他人を傷害するとき、汚職をし、賄賂を受け取るとき、悪人に直面して見て見ぬ振りをするとき、“国を愛する”は実際既に灰燼に帰し、残ったのは只の綺麗なスローガンと、独裁者が他人を打撃するために利用する政治的道具であるに過ぎなくなっている。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/30/66127.html