日本明慧


学習者と共に精進する

文/大陸の学習者

【明慧ネット2004年2月7日】わたしが知っている資料の管理場所、インターネットの連絡場所は、壮年青年の学習者で構成されており、迫害により流浪せざるを得なくなった学習者と単身の学習者などである。自ら志願し、常人が想像のつかないような苦痛と圧力に耐えている。法を正す時期の大法の弟子としてのすべきことをし、真相を伝え、衆生を救い済度することに重要な役割を担っている。その姿は人に感動すら与えるものである。

通常の生活において、孤独で寂しい生活は苦しいものである。自分に対する要求を緩めてしまえば、隙が生じてしまうことであろう。各方面で素晴らしかったが、男女の感情問題などの執着心が取り切れず、法理上における認識が向上せず、その結果、妨害され落ちてしまった一部の学習者がいる。とても惜しいことである。

最近、明慧編集部が掲載した二つの文章《法を正す修煉の基点に立ち、大法資料管理所、インターネット連絡所の安定と運行を守る》《男女関係と婚姻問題について》の内容は、共に素晴らしく、また時機を得たものであった。この方面での妨害は比較的深刻なようである。

これは一つの基準の問題ではないかと思う。人間の基準、落ちた道徳基準で自分を量ろうとしても、間違ったとは言えない…しかし、それでは話にならないであろう。修煉者であるならば、修煉者の基準をもって、自分に要求をしなければならないと思う。法を正す時期の弟子であるならば、法を正す時期の大法弟子の基準をもって自分に要求をし、法を正し今日に至り最後の場面において、要求する基準は更に高くなるべきであろう。

身辺に一人の女性学習者がおり、一般的に言えば、若く美しく未婚であり、修煉の状態も能力も非常に優れている。わたしたちは一つの新たな資料管理場所を造った。私たちは法の勉強、煉功、正念を発する、真相資料を作るなどなどを共にする。まず、わたしが思ったことは、師父への感謝であった。わたしの身近へと彼女を按配し、それは色欲の心を取り除かせることでもあり、良い機会であると思った。色欲の心を取り除かないと修煉はできないものである。こう考えたので、お互いに協力し合い、良質な関係を保ち、気楽であった。まさに、師父に対する感謝ばかりだった。

この物質社会の中で、人の思想は汚染されやすく、時として良くない汚い考えが浮かんで来る。そのような時は、自分が修煉者であることを自覚し、正念を発し、それを取り除き、良くない考え方を抑制し、いかなる理由でも空間場へと現さないようにする。正念が強ければ、それはどんどん弱くなり、最後には消滅されることであろう。師父が説かれた「人類社会は修煉にとって絶好の場所です。人類社会にある全てのものは人に執着を起こさせるから」ということに対して、ある程度認識することができたのではないかと思う。執着心を放棄できなければ、それは人間であり、執着を完全に手放せば、神という境地へと近づくのではないかと思う。

わたしたちは、互いに協力し、時には矛盾もあったが、邪悪な妨害が付け入る隙はなくなっていたと思う。全く異なる性格や気性であったとしても、法の基準に立ち交流をすれば、自ずと解決できることであると思う。乱雑な妨害の要素が存在することがなくなり、学習者同士の関係となり、とても自然であり、共に協力していくことであろう。

自分の周囲で優秀な異性の学習者が現われ、この学習者に対して好感が生じる時や、男女の学習者の情が生じるのが感じられた時など、この方面の執着心を取り除くべき時ではないかと思う。いかなることでも、その出現と発生は偶然ではないはずである。ところが、悟ることなく人間の基準で自然であると思い、良い機会が来たと思い、ここで煉功している自分への褒美である等と思っては、最終的に邪悪により破壊されるのでないかと思う。これらの例による教訓はとても多く感ずる。

もし、正念がとても強く、修煉者の基準に立ってみたならば、そのような異性の学習者の到来は、師父の按配で、共に大法を証明するための縁であり、この方面での執着心を取り除くことであると認識できれば、“僕は普通の人ではない。修煉者だ。”“この人は教えがいがある”となるであろうし、この一念により異なる結果をもたらすことであろう。

一つの修煉の物語を述べてみるが、この物語は当時のわたしにとって、とても深い触れあいであった:釈迦牟尼が、若いころ法を伝えていたとき、難陀というが弟子がいた。ところが、難陀には若く美しい妻がいて、その生活は幸せで円満であった。釈迦牟尼が法を伝えるとき、難陀は精進せず、釈迦牟尼が出かけると、こっそり家に戻り妻に逢った。

佛釈迦牟尼は彼の執着を見抜かして、ある日難陀をつれ一匹の年老いた黒く醜い猿に引き合わせた。釈迦牟尼は難陀に聞いた、「君の妻はこの猿と比べどうかね?」。難陀は、「この猿は醜く、とても比べられません」。次に、釈迦牟尼は難陀を連れ仙境へ行った。華麗な宮殿に住む一群の仙女たちは、「人間世界に佛の弟子難陀がいて、佛は彼を導き出家させる。出家した功徳で、死後この天に生まれ、ここの天子となるであろう」。これを聞いて難陀は気持ち良くなった。釈迦牟尼は難陀に、「これらの仙女と君の妻を比べるとどうかね?」。難陀は、「妻と目が見えない猿と比べるのと同様、どう比べられますか?」。

また、釈迦牟尼は難陀を連れ地獄へ行った。大きな鉄釜で沸き立つ湯で人を煮ていた。一人の番人が、「人間世界に佛の弟子難陀がいるが、欲の戒を持ち、死後天に昇ったが、天での福を楽しんだ後、この地獄に落ち苦しみを嘗めるのだ!」 と言った。難陀は心から恐怖を覚えた。その後は、生死享楽を見抜き、敬虔な心で佛に向かい、勇猛精進し、最後には、阿羅漢果位へと到達した。

常人の中の情を重くみるあまり、史前の誓約を忘れることができるのであろうか?

以上は個人の認識であり、ご指導ご意見を頂きたい。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/2/7/66791.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/2/21/45322.html