日本明慧


弟子として本当に修めようと決心する

文/韓国大法弟子 高 徳煕 

【明慧ネット2004年1月22日】最近『転法輪』を学んで、本当に修めるといった内容についてところどころで悟るところがありました。一講一講の内容がだんだんと心の中に入ってきたのです。以前に師父が口を酸っぱくして老婆心ながらに何度も強調していた話がやっとわかりました,元から私は本当には理解してはおらず、心の中に溶けいっていなかったのです。

あなたは本当に修めていますか?仔細に自己を反省すると、大変にびっくりして気がついたことに、元々私は至ってはいなかったのです。誰と比べても努力をしており、誰と比べても師父の要求に応えていると自分で想っていました……どうしてそのような!他人と比べて高い低いということ、それこそが対立であり、非常に簡単に自らの心から魔を生じます。

“更に努力をしなくては”私は常にそのように思っていました。七年前に法を得てから今日まで、煉功と法を学ぶことは一日として欠かしたことはありませんでした。迫害が開始されてからは、煉功、法を学ぶこと、正念を発すること、真相を伝えるという四つのことは欠かさずに、毎日効率良く大法を実証することに参与し、食事と睡眠の時間を極力減らしました。私は一個の大法弟子としてやり、必ずや自己の使命を完成し、世人と宇宙の衆生を救わねばなりません。溶けている鋼鉄のような慈悲をもたなくてはなりません。私は師父が説いた一言一言を理解し実践しようとしました。もし人が私に向かって問いたら「あなたは本当に修めていますか?」、私は何のためらいもなく答えました「はい」。

しかし法を学ぶ過程で、師父は私の至らないところをなくし、私を目覚め悟らせてくれました、私は本当に修めてはいませんでした。これによって私は始めて修煉の厳粛性を体得しました。修煉を開始してから現在まで、私は“自分の間違いを認めようとしない”病気を自ら気がつくことができていましたので、自らうぬぼれて喜んでいました。七年間のあらゆる努力は皆自分のためでした、私の健康、私の滅業、私の心性の向上、私の円満、私の衆生を救うこと、私の宇宙の法を正すこと、もちろんのことどれ一つとして“私”を離れてはいませんでした。自我の意識がとても強く、欲望が大変に大きく、私が修煉の道を歩き始めてからはいやというほどの批判と非難を浴びました。いったん何かをやろうとすると無数の是非を招きました。なぜなら私には自己中心だったのが分からなかったからです。〈論語〉の中の“普通の人の観念を根本上から改変する”、私はしょいこんではいましたが、しかしながら却って自分自身には根本的な改変が発生していなかったのが分かっていませんでした。私は私心を捨てるということがなかったために根本上から自己を改変するというしようもなかったのでした。理解しなくてはならないのは彼を先にし私を後にし、私をなくし我を無くし、衆生を救いそうして新しい宇宙の法理に同化し、実践に努めるようにする、これらのことは私には分かっていました、しかし実践のたびに問題がでてきてもその理由を私ははっきりとはさせませんでした。

最近ある古い学員が惰性から邪魔が入り、大法を実証するのに出かけて任務感を覚えるようになりました、形があって心がないのです。これらを見るにつけ、私は自分自身も同じような存在で類似した要素であると認識し、重ねて決心しました。私もまた根本上から自己を改変していないものの、しかしながら師父は私がこのようになっていることを望んではいない。今からやろう、私は元に戻って私心を取り去ることを始め、そうして本当に意義のある修煉を始めました。

何度か実践してみて、自我を捨てることがきた瞬間に今わかったのですが、慈悲が泉のように湧いてきます。私はもう自分のために法を学び煉功をしません、これにとってかわるのは、宇宙の衆生のために真相を伝え、正念を発し、もし出発点が迷っている宇宙の衆生のためであるという話に変われば、もう惰性で繰り返すということもないのです。私心は高次元においてもそこに生じるために、したがって、人の尺度で量ってみると、私心が悪いものだと分からないのです。したがって常人が認識している甚だしいものでは、私心がなくては人は努力をしないし、私心がなくては社会は発展しないというものです。

実際上では私心をなくしてこそ本当にマンネリがなくなります、そのうえで努力を更にするのです。自我をなくし、執着心をなくしてこそが本当の無為です。最後に心に留めるために師父の第二講の最後の部分のこの段で、この文章を終わりにします。私が体得したものが間違っていたら、どうぞ指摘して下さい。

「人は大変に済度し難いもので、毎回そのように5%から10%の人が向上できません。誰でもが道を得るというのはあり得ないことで,修煉を続ける人にも成就できるかどうかの問題があり,どこまで修煉する決意があるかの問題があります。誰でも仏になることはありません。本当に大法の修煉をしようと思う人なら,この本を読むだけでも同じ状態が現れ,同じように得るべきものが得られます」。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/22/65393.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/2/4/44751.html