自我を話し合う
文/ドイツ大法弟子
【明慧ネット2004年2月14日】引越しして、新しい修煉環境ができ、自分一人で一つの小さい村に住むようになった。少し孤独であったが、多くの時間ができ、思考できるようになり、冷静になって内に向けて探し、自分をはっきり見つめることが出来た。師父は教えられた:“時間はもう多くありません。良く行なってこなかった学習者は自分で考えてください、本当に自分自身を考えてください。私は初めて大法弟子に対してこういう戒めを出しました。(拍手) 圓満成就できるかどうかは自分次第なのです。”(《大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説》)
最近の数ヶ月の“独修”を経て、自分の心性に関わる問題を多く見つけた。例えば、他人が自分をどう見るか、どう評価するかを大変気にする、ひいては他人の一言、一つの表情、一つの目つきから相手が自分をどう見ているかと、自分に対する態度の良し悪しを推測する;又、交流する時、自分が悟った法理に対して他人が気をつけているかどうか;同修に提出した意見が相手に受け入れられたかどうか、心ではこう思う:彼はきっと受け入れないだろう、彼女は常に私に偏見を持っているから、彼らは常に他人の言葉が耳に入らないから、彼女達はそれほど独りよがりだから、と。考えれば考えるほど腹が立ち、又もし彼らが受け入れない或いは不遜な言葉を言い出したら、私はどんな言葉で言い返すかなど。なお、自分の容貌と身なりが十分良いかどうか、自分が異性に注意されているか、気に入られたかどうか、偶には思想業力に左右され知らないうちに自分が一目ぼれの人と如何に知り合って、恋をし、ひいては一部とても汚い考え(色欲から生じる)が浮かんでくる、自分の頭の中で物語を作る;また、同修がある方面で自分より強く、自分より素晴らしいことが分かると意外にも耐えられなくなり、強烈な嫉妬心を感じる。
私は自分にこれほど多くの執着心があるということを発見して驚き、ひいては自分が向上したかどうか疑い始めた。私はこれらの良くない心は、物質的な存在で且つ生命があり、法を実証するなかでマイナス作用が働き、自分を邪魔し、他人にも影響するとはっきり感じた。
心を静めて法を勉強した後、根気よく一つ一つの発見された執着を細かく吟味しながらこの根源を探すと、これらのすべての執着を最後まで追いかけてみると全ての出どころが“自我”に対する執着であることが分かった。
他人に素晴らしいと思われることに自己満足し;他人の肯定を得ることにうぬぼれ;他人が自分に良い態度を持つことを希望し;自分の観点が他人に認められ、または共感できることを喜び;もし他人が自分の意見を受け入れないと、憤りのために心が穏やかでなくなり;色欲も入り混じって、異性に喜ばれるうわべばかりの見栄と自らの幻想に酔いしれる;“自分の気にそぐわないことになると、腹が立って仕方がない”(《転法輪》)、嫉妬心はまさに強烈に個人の観念に執着する表れで;ひいてはこの文章を書く時も、またもや如何に自分の観点の正しさを証明し、読者に受け入れられるかの心が浮かんできた。この“自我”はそれほど強大で、頑固で、恥ずかしい。まさにこれらの漏れがあってこそ、旧勢力は邪魔と破壊の口実とする。私たちの環境は心により変化する。こう見ると、最も克服し難いのは、旧勢力とそれらに操られている邪悪ではなく、旧宇宙で生まれた、傷ついたこの“自我”で、もしこの旧い自我を完全に捨てて、法に同化するならば、邪悪も試練を按配する口実が無くなる。
旧宇宙では、生命が私心のため自我の本性のための一つの機制のように、自分の欲望を満たすために、自分の追求に到達するために、自己の価値を認め実現させるために運行している、生命は重くなり、傷つけられ、落ちるようになる。歴史上、私たちが当初ここに降りて来た時はみな私心のためだったかも知れない;自分の衆生が救われ、済度出来るように、自分の宇宙が更新でき、この災難を乗り越えられるように、或いは全宇宙が法に正される中漏れないように、とにかく自らを救うためであったかもしれない。異なるのは:私たちは今日自分の全ての能力を尽して師父の選択に圓容し、大法に無条件に同化することを選択し、根底から自分を更新して、自分が新しい宇宙の基準に符合できるようにしている;旧勢力は自分を変えようと思わず、師父と法を正すことを利用して彼らの自分を救う目的に達する道を選択した。
この“自我”はいったい何だろうか?
《2003年アトランタ法会での説法》中、学習者がこう聞いた:これほど長く修煉して、はじめて自分の根本的な執着とは何かが分かるようになりました。それはすなわち自分自身に対する執着です。師父は教えた:“その通りです。はっきり言えば、これは即ち過去の生命の基本的な要素です”と。
これらの私たちの生命を構成する過去の基本要素は私たちの修煉と法を証明する中でとても大きな束縛と抵抗作用を起す。そうであれば、如何に修煉の中でこれらの束縛を突き破り、この“自我”を取り除くか?
私たちは過去の個人修煉から現在の法を正す中での修煉に至るまで始終内に向けて探すことを忘れたことがない。
師父は教えた:“慈悲をもって全ての人に対処すべきであり、如何なる問題に遭遇しても自分に原因を探すべきです。人に罵られ、殴られたとしても、自分を探し、自分のどこが良くなかったから引き起こされたのではないかと見るべきです。これはトラブルの根本的な原因を見つけることができ、私心のため自我のためという執着を取り除く最も良い方法でもあります。あなたの敵を含む個人修煉の中の全ての人を許すまで心を広くすべきです。” “如何なることにおいても、まず相手を考え、相手のことを考えてから自分を考えるのです。私は他でもなく、皆さんが自分のことより他人を優先的に考えるという正法正覚の圓満成就まで修煉するようにと要求しています。これは私心を取り除くことであり、これで「自我」を取り除くことができます。” “ですから、皆さんのところで見れば、問題に遭ったら自分の原因を探し、他人のために多く考え、自分を修め、内に向けて探し、他人の足りないところを少なく見、全ての出来事に対して私の言った通りに行うことができれば、皆さんは実は既に精進の中にいます。”(《オーストラリア法会での説法》)
私は悟った、私たちが絶えず法を勉強する中で、内に向けて自分の法に符合しない思想と行為を見つけ出し、それらを法に従って規正し、自ら法に同化すれば、法は一層毎に私たちの生命の要素を変え、基本要素まで変えてくれる、これはほかならぬ“自我”を取り除くことで、私たちを新宇宙の基準に符合させることだ。法を正す修煉の中、この旧い自我を取り除く過程は私たちが法を実証する中に溶け合っている。私たちが一つ一つのことをする時の心態は必ず大法の需要を第一とし、師父の選択を第一とし、これこそ私たちにできる最も無私であり、最も大なる善である。
修煉の次元に限りがあり、不当なところ、誤ったところについては同修の教示と批評をいただきたい。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/2/14/67377.html)
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