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“法律に従って江羅劉周を処罰する”よう要求することは何を意味しているのか?

【明慧ネット2004年2月19日】(明慧記者欧陽非)法輪功学習者は4年余持続した平和的な抗議中、これまでどおり首魁江沢民を厳罰に処するよう要求すると共に、最近から掲げられた横断幕には“法律に従って羅を処罰する”、“法律に従って劉を処罰する”、“法律に従って周を処罰する”よう要求すると書かれている。この行動は人々に何を伝えようとしているのか?

法輪功は修煉であり、国家の政治、政党に関わらず、唯”人の心”だけに対応している。

同様に、邪悪の迫害を暴露する行動の中でも、法輪功は唯““人の心””だけに対応している。人が悪い事をし、真善忍を迫害するのは、それがデマに騙され、心中に善の心がないからである。法輪功の学習者は、人に心から善の念を生じさせることこそ、問題解決の根本の道と知っている。この四年間、法輪功は政府、政党を相手とせず、唯“人の心”のみに対応し、法輪功を迫害する個人を相手として、その邪悪な行為を暴露し、良知を覚醒させ、邪悪を制止させることを望んできた。 “人の心”を注視するのは、修煉者として法輪功学習者の、政治を超え人の本性に直接触れる、自然な選択である。

法輪功学習者は唯一人の人間として有する最も基本的な権利、信仰と煉功の自由を要求しており、如何なる政治制度や党派の争奪に対して政治的な訴えや要求はしない。まさに根本的に政治を超えたこの抗争は、法輪功の迫害に反対する中での平和的、理性的、非暴力が、中国歴史上の数多くの民間の反抗とは明らかに違うということを現した。

政治を超え、“人の心”だけに対応する。そうすれば、この迫害の中で、一人一人の“心”の現われが善であるか、悪であるかが、法輪功学習者の扱いを区別する基準となる。

数年来、法輪功は首魁江沢民から一般の邪悪な警察までの、数万人の悪口と悪行を収集して、“悪人リスト”に記録し、世の人々に公表した。

既に罪が大きく、極めて悪質なものに対しては、各地でもっと大々的に暴露した。江沢民、羅幹、劉京、周永康らこそこの類の邪悪の輩である。

江沢民は今回の迫害の首謀者であり、弾圧を推進させた裏の首魁である。羅幹は中央政治法律委員会書記であり、法輪功に対してデマを作り、誣告して罪に陥れることを直接企画した江沢民の直接の用心棒である。劉京は法輪功をもっぱら迫害する610恐怖組織の頭目で、東奔西走し各地で法輪功を容赦なく打撃するよう指示した。周永康はもともと四川省省委員会書記で、現在公安部部長を務めており、かれの両手には法輪功学習者の鮮血が塗り込められている。

今法輪功学習者が“法律に従って江羅劉周を処罰する”よう要求するのは、まさに未だに一層煽り立て、悪者に加担する者らに次のような情報を伝えている:悪事を働く者は必ず自分の行為に責任を負わなければならない。如何なる口実にせよ“ただ上司からの任務を執行した”と言うのは、かれらが犯罪の責任から言い逃れる口実とはならない。

人間は、先ずは一人の人間でなければならない。その次に仕事で、任務の執行である。人間とも言えないのに、まだ仕事のことを論じられるのか?人間であるならば、人間として持つべき良知を備えるべきだ。悪徳なデマで真善忍を信仰する民衆に害をもたらし、人民に憎しみを煽動して、良い人を死ぬところまで追い詰めるのが、人間の良知なのか?こんな社会は恐ろしくないのか?

職務上の責任、職能部門の真の機能は人民の権利を保護することである。公安部は最近全国的な大会で“強制的な措置を濫用し、拷問で自白を強要し、人権を侵害してはならない”と述べた。しかも法律を執行する機関として、更に国家憲法を根拠とすべきである。そうであるならば、どうしてこれらの人が迫害の中で遂行する“職責”が良い人を迫害する“職責”で、憲法と人民の権利を守るのが根本的な“職責”ではないのか?どうして良い人を打撃する時、それほど悔い改めようとしないのか?少しの良心もないのか?

それはこの類の悪い事をすれば江沢民の好意ある眼差しを勝ち取り、彼ら個人の“前途”に有利であるからで、彼らの自分の汚い心理に叶っているからである。更に多くの個人の利益を守り、獲得できる“職責”と、正義と良知、国家憲法を守り、法律により国を治める“職責”において、これらの人は私的な目的のために、前者を選び、そして無数の法輪功学習者と社会全体に尽きない災難をもたらした。

羅幹、劉京、周永康はまさにこのような人間ではないか?首魁江沢民が国家機関全体を脅迫して法輪功を迫害することができるのは、まさに羅幹、劉京、周永康のような個人の利益のために良知を失った邪悪の輩が非常に多くいるからである。彼らは江沢民の法輪功に対する絶滅政策を押し広め、実施した四年余の間、自ら真善忍を敵とみなし、善を失い、悪に従い、犯した罪悪は山ほどあり、彼らを待つのは必ず法律と善悪には必ず報いがあると言う天理の公正なる懲罰である。

“法律に従って江羅劉周を処罰する”ことは“人の心”に警告を与え、人々の良知を覚醒させ、みな立ち上がって、今回の人間性に対する迫害、真善忍に対する踏みにじりを制止させるためである。悪人が抑制され、善良が称えられてから初めて私たちの社会も真に安定させることができるのである。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/2/19/67902.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/3/2/45659.html