日本明慧


明慧ネットに関係していた同修三人が迫害により死亡 (第一部)

海外大法弟子筆

【明慧ネット】明慧ネットの記事を作成して配ることは、大陸の弟子と海外の弟子の共同の努力によって行なわれる。資料収集、情報送付、資料の大量印刷、迫害を暴露すること等、明慧ネットの仕事を通じ、多くの感動的なことが起きた。大陸の大法弟子達は、最も困難な環境下にあり、最も困難な物質的条件下にありながら、自分の生命をも含む全てを放棄して、黙々と明慧ネットの存在を固め、保護し、発展させてきた。

今日は改めてこれら三人の大陸の同修を紹介させて戴きたい。

王は北京で仕事をしていたが、迫害のために故郷の山東に戻った。彼は自分が明慧ネットの仕事をしただけでなく、各地の大法弟子をも動員した。数年という短い期間中に王の足跡は、大陸の数省と何十もの町に及び、中国で最も信頼できる明慧ネットのコーディネーターの一人となった。そのコーディネーターとしての役は自然に形作られたものであった。彼のいた修煉の境界は、自然に人を引き付けるものであった。明慧ネットを固め、保護することであろうと、その記事や資料を広く配ることであろうと、又法を正す修煉中に皆が精進するよう導く役においても、彼の貢献は莫大であった。

袁江は清華大学の卒業生で、1995年に甘粛省の輔導員となた。1999年に迫害が始まった後、彼は自主的に甘粛省当地の学習者を率いて法を正す大きい流れに突入した。そして当地の明慧ネットのコーディネーターとなり、多くの重要な仕事をした。彼は明慧ネットと当地学習者をうまく関係させ、明慧の記事を十分に利用して法理を話し合い、当地の学習者の修煉における向上に寄与した。

李忠民は、非常に堅実な修煉者であった。何度も囚われ、監禁され、殴られたが、いつも正念をもって魔窟を脱出し、悪人を困惑させた。彼は流浪を余儀なくされた後、黙々と法を正す時期の弟子がやるべき三つのことを行ない、中国民慧ネットの連絡員となった。資料センターの運営はもちろん、自分の修煉や外出して真相を伝えることにも非常に優れていた。周囲の同修達がそれを見て感服し、彼の周りに一つの正の結集力が出来た。

下記はこれら三人の同修についての詳細である(まだ迫害情況下にあるので、大陸の同修を保護するために、明慧ネットの運営についての詳細には触れない)。

王の部分的事蹟

男、39才、身長178m、山東出身、山東工学院 (山東大学の前身)卒業、生前は北京で中国人民銀行本社勤務、優秀なハイテック幹部として認められ、業務能力が優れ、仕事の効率も抜群であったため、カナダに派遣されたこともあった。

彼はいち早く一般民衆に真相を伝えることの重要性を理解した、大法弟子の一人であった。そしてそれを実行に移し、多くの同修を導いて真相を伝える仕事を展開し始めた。

1999年迫害が始まるなり、彼は大法の真相を伝える手紙を、全国の各省と市政府の関連部門に送り、強烈な反響を引き起こした。彼は当時の中国国家主席の要職にあった江沢民にまで真相を説明する手紙を送り、犯罪を止めるよう要求した。事実を前にして、江沢民は迫害を止めないばかりか、自ら王を三ヶ月間牢に入れるよう指示した。

迫害のために王は仕事を止めさせられ、長期に渡って流浪した。彼は人には誠意をもって対し、話上手で、いつも人に最高のものを与えた。三年間の放浪生活中王は、様々な処に足を運び、多くの資料センターを設立し、法理の理解を高めるために、そして法を正すことに参加するために表に出るよう同修を助けた。

同修の記憶によると、王は六つの大きなリュックサックを持って、大陸中方々を渡り歩いた。彼は自分の貯金20万元を全部法を正すことに使った。5台のコピー機と、5台のコンピューターとプリンターを購入し、行く処全てに法を正す時期の大法弟子としての足跡を残した。

不法役人達は王を憎み、怖がり、彼を捉えるために10万元の賞金を出したこともあった。邪悪の逮捕を逃れる間に、王は痩せる一方であったが、いかに邪悪が狂ったように彼を追い廻そうと、彼は大法を疑うこともなく、彼が真相を伝えるのを止めさせることが出来る者はいなかった。彼は同修に言ったことがある、「邪悪の迫害がどのようであろうと、師父の要求通りに行なえば、誰も私達を動かすことは出来ない」。

8月21日の午後、王は山東省梁山県のバス停留所で、済寧の悪警によって違法逮捕された。

獄中で、彼は悪警達の狂ったように残酷な刑と拷問を受けた。殴られ、蹴られ、そして両手を後ろ廻しに手錠を掛けられて、後ろからつるし上げられたまま棒で打たれた。何も情報を得られず、悪警は彼を済寧市の拘留所に違法監禁した。更に恥ずべきことは、王の身分が確認された後、悪警は彼の六十過ぎの母親を誘拐した。

王が違法逮捕される前、公安部内で期限内に彼を捕えるよう命令が下された。故に公安部は専門に王の故郷の山東に人を送り、要所要所で待ち構えさせた。

不幸にも王は捕えられ、悪警達は漸く昇進と金儲けの機会を得て、大喜びした。特に中でも悪警の郭は、一生懸命力を入れ、王を日夜眠らせずに疲労戦術をもって連続に審問し続けた。大法から与えられた金剛の意志をもって彼は微動もしなかったので、悪警達は死に物狂いで彼を迫害した。

2002年8月28日、王は済寧市の拘留所に留置されている間に、拷問により死亡した。目撃者によると、王の遺体は頭にひどい出血があり、それが彼の死の直接の原因となったようだ。

王の死後、公安局と610部は彼の家族に上訴することを禁止した。上訴すれば王の二人の甥は仕事を失うだろうと、威嚇した。

袁江

袁は教師の家庭に生まれた。父親は北西師範大学教授で学部長であり、母親は高校教師であった。袁自身は、清華大学コンピューターサイエンス学部を1995年7月に卒業した。彼は1993年清華大学在学中に、学内で最初に法輪功弟子となった者の一人であった。卒業後彼は甘粛省に帰り、甘粛省輔導点の責任者となった。彼は又、蘭州市電信局所属の信息技木工程会社の副総経理であった。2001年11月9日、29才で拷問により死亡した。

大法修煉をする前は、袁は多病であった。健康上の理由から彼は一年休学したことさえあった。しかしながら彼は大法と深い縁があり、師父のクラスに四回参加した。大法を学んで以後彼は心身に大きな変化が起きた。1994年8月、清華大学教授が師父の講議に参加した後大学内に煉功場を設立し、袁はその早期学習者の一人であった。その頃彼は毎日法の勉強と暗唱を堅持し、法の勉強の重要性を繰り返し強調した。袁と他の清華大学の早期大法弟子達は毎日法を勉強し、煉功し、大学内とその周辺に大法を洪める基礎を築いた。

以下は現在英国に在住する清華大学卒業生の回顧である。

1995年1月4日、転法輪出版記念に師父が北京で説法した時は、北京の学習者が多くやって来て、券無しには入場出来なかった。清華大学煉功点は数枚の券を入手しただけで、私はその一枚を獲得した。私の同級生の一人が法輪功の学習を始めたばかりで、私は彼が師父を見ることが出来ればどんなに良いだろうと、思った。彼が券を持っていないのを承知で、私は彼を講堂へ引っ張って行った。袁がそれを知って、自分の券を私の同級生にあげ、彼は寒い外で入場できる機会を待った。彼は自分の行動で大法弟子とはどんなものか、実証したのだった。袁はいつも全てにおいて慈悲と善良さにあふれ、彼と知り合った人々に深い印象を残した。1995年7月、彼は清華を去り、西北での洪法活動の旅を始めた。彼は自分の全てを捧げて、人々に大法を洪めようとした。

蘭州とその周辺で彼は大法を活発に洪めた。当地の人によると、その頃袁は西北師範大学の庭で、毎朝一人で煉功していた。長い間彼とバナーだけだったが、彼は毎日煉功を続けた。一、二年の間に参加者は数万人に膨れ上がった。袁の黙々とした努力が、甘粛省と西北地域における大法の迅速な洪まりに貢献したことは確かである。

袁がこの世を去った後、同修達は回顧した:袁は、師父の言葉「法の勉強をよくする」にしっかりと従い、皆を共に法の勉強へと導いた。毎晩グループでの勉強会と煉功が行なわれ、可能な限り袁も参加した。時々仕事で遅くなると、彼は餅を二つ買って勉強会へと急いた。新しい学習者が転法輪を入手出来ないと聞くと、いつもその人のために入手する方法を見つけるのだった。彼は法の勉強を大変重要視した。袁が昼食時間と夜の時間を利用して、毎日4、5時間の法の勉強を堅持していると聞き、皆ももっと勉強するよう奮い起たせられ、皆の向上のためにすばらしい環境を形成した。

1998年7月の《甘報》新聞事件では、彼は修煉者の善良と慈悲をもって関係者の人間性と職業道徳を引き出し、彼らは自らの誤りを公式に認め、大法学習者に謝罪の手紙を出した。

1998年から1999年にかけて、西北地区の大法学習者の数は激増し、その結果大法の書籍や資料が不足した。袁はしばしば自分の給料を割いて他地域で書籍を購入し、郵送した。師父の説法のビデオテープは常に需要が供給を上回り、袁は自分の貯蓄で何百ものテープを購入し、必要とする学習者に送った。新しい煉功場が設けられるといつも、袁は自腹を切って部屋を借り、新しい学習者達が師父の九回の説法ビデオが見られるようにした。彼は頻繁に食費に困る程のことがあった。

1995年から1999年の4年間は、夏の炎熱下であろうと、凍るような冬であろうと、暴風であっても、大雨が降っても、このように続いた。1999年4月25日以後は、悪警の尾行や包囲があっが、袁は相変わらず皆と一緒に勉強と交流を続けた。彼の不動な悠然とした態度を見て、皆も心が落ち着くようだった。彼はよく言っていた、「ここには師がおり、法がある。何を恐れることがあろうか?」

1999年7月20寸前には、嵐の前に集まる黒雲のように情況が悪化した。甘粛省内外において、メディアが大法を中傷する事件が多数発生した。同時に多くの煉功場が邪魔され、学習者が殴られ、虐待され、バナーや書籍が没収された。袁は個人的に職場から勧告を受け、更に公安から威嚇された。袁は恐れることなく、皆の代表として党政部門へ次々と上訴に行った。

袁は善良で誠実で才能豊かな人だった。蘭州市の電信局所属の情報技術工程会社で、副総経理を担当していたが、1999年迫害開始後、法輪功信念を捨てないために解雇され、技術総監督に転任となった。彼は電信局で働き者として認められ、一心に奉仕する技術要員で中級幹部だった。彼の年齢、学歴、才能、そして人に対する態度があれば、袁は大出世する可能性があった。しかし彼は名利に執着しなかった。

2001年1月袁はやむなく家を去った。半分飢えながら国内を東西南北に転々と流浪し、黙々と真相を伝えることに最大の努力をした。彼は口下手で、いつも師父の詩「行なうことが修煉である (非公式訳)」(洪吟) を引用していた。

2001年9月30日、袁は甘粛省の敦煌付近で身分証明書がなかったために、バスの中で逮捕された。後で知ったのだが、北京公安は当時、十数名の長春法輪功学習者が河西走廊を通って新疆へ行くと聞き、逮捕するよう軍警に秘密命令を出していたのだった。

袁の逮捕は甘粛省の公安庁の邪悪を大喜びさせ、迅速に人手を集めて、車二台分の刑具を集めた。

甘粛省の責任者として、又当地の明慧ネットのコーディネーターとして、袁は多くの事情を知っていたので、逮捕後どのような拷問と受けたか想像も出来ないほどだった。あの魔窟の中で袁は二ヶ月近く残酷な刑と拷問を受けた。邪悪は全ての刑具を使った。更に袁を大の字の形につるし上げ、存分に殴った。最後にもうダメだと見て、彼を下ろしたが、それでも手足には錠が掛ったままだった。

袁は、邪悪はもう救えないところまで来たと分かり、強力な正念をもって自分で錠をはずして、魔窟から逃げ出した。それは10月26日のことだった。

長期間邪悪によって狂ったような迫害を受け、袁は全身傷だらけになり、その上長期間絶食したので、体は極度に衰弱していた。困難の中で体は耐えきれず、ある山の洞窟に入り、西北地区の10月末の洞窟の中でまる4日間昏睡状態となった。

その後袁はなんとか山の洞窟から抜け出し、ある学習者の家まで辿り着いたが、多数の内傷が発作し、治らないままこの世を去った。

後、当地のある学習者が、袁が魔窟から抜け出した時の情況を思い出して次のように書いた:あなたはすでに骨と皮だけで、見分けがつかない程痩せていた。同修の指示がなければ、それがあなたであるとは信じられなかった! 目を少し開けて口と鼻からは血が流れており、全身動かずそこに横たわっていた。その時私の頭は空白となり、涙が泉のように流れ、心は刀で刺されたように苦しく、悲痛を強く忍んであなたの額を撫でると、その額は氷のように冷たかった。固くなり始めた手を引っ張って見て、あなたの太股を見て、私は失神しそうになった。右側の膝から下はすでに黒くなっていた。ふくらはぎのあたりに掌の大きさの、そしてその足の右側に指程の部分は、皮も肉もなかった。その足全体は枯れた枝のようだった ・・・

袁が居なくなった後、公安はすぐに大捜査を始めた。袁を保護救助した多くの同修が相次いで逮捕された。彼の両親まで監禁された。

袁が迫害によりこの世を去った後、邪悪達は罪を隠す為に迫害に関与した者達を転職させ、袁を違法監禁した看守所へ人を送り、そこの囚人達に「袁はここに監禁されなかった。誰かが洩らすなら・・・」と脅迫した。

私達の良き同修袁は金剛の意志をもって、同修を裏切りはせず、師父との誓約に背かなかった。袁が逮捕されてからこの世を去るまでの多くの詳細は、いつの日か明るみにでるだろう。殺人者達は皆自分で償いをするのでなければ、法と天によって罰せられるだろう。

(続く)