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法理の一部が理解出来ない時はどうするか

【明慧ネット】最近、師父が講じる法の一句が理解出来ない時はどうするか、数人の同修が話し合った。よく修煉している同修に助けてもらって良いだろうか?私は個人的には、それを良い方法だと思わない。何故なら師父が前に忠告した、「大法をよく学ぶには、如何なる目的も抱かずに学ぶことこそ正しい方法なのです。《転法輪》を一遍読み終える度に、少しでも分かるようになったら既に高まっています。一遍読み終える都度、一つの問題だけが分かったとしても、それも本当に向上したのです。実は、あなたは修煉の中で、取りも直さず少しずつ少しずつ知らないうちに修煉し向上して来たのです。忘れてはいけないのは、求めなければ自然と得られることです。」(「法を学ぶ」精進要旨)

師父は又言った、「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです。大法の中で何かを悟ったとしても、それは無辺の法理がある次元に存在している法理のわずかな部分であるに過ぎず、法或いは法の一部、さらにはたとえ一文についてであっても、決して定義を下してはいけません。仮にそんなことを皆の前で話をすれば、話した瞬間に罪業となり、ひどい場合はその罪が山のごとく天のごとく重いのですが、どのように修煉するのでしょうか? 」(「定論」精進要旨) 

師父は米国フロリダ州での説法にて言った、「ご存知のように、どのような心理状態で法を読めば、法理を読み取ることができるのでしょうか? これは、わたしが言わなくても皆さんは分かっていることです。目は法を見ていても、考えが法の上に無ければ、皆さん考えてみてください。それは読んでも無駄ではありませんか?」

師父は又言った、「ですから、いくら忙しくても、法を学ぶときには、如何なる考えも放下し、他に何も考えずにただ法を学ぶべきです。あなたが法を学んでいる中で、考えている問題が全部解決されたかもしれません。なぜならば、全ての字の背後に皆佛道神がおり、あなたが何を解決しようとしているのか、今何を急いでやろうとしているか、彼らに分からないということは在り得るでしょうか?それなら、彼らはあなたに教えないのでしょうか? ただし、必ず求める心を抱かずに法を学はなければなりません。皆さんはとっくにこのことが分かっています。問題を解決しようとする執着の心を抱いて法を学んではならず、落ち着いて読めば、修めた効果はきっと非常に素晴らしいものです。ですから、法を学ぶ際、形式に拘らず、必ず心を放下して読み、本当に学び、心ここにあらずとなってはいけません。注意力が分散してしまえば、無駄になります」。(米国フロリダ州での説法)

一部の学習者は何故、法の理解において同修から助けを求めるのだろうか? それは内在する執着と怠慢を暴露しているのではないだろうか。

第一に、法の勉強に没頭していないか、勉強が足りないかである

第二に、主意識が十分強くないために、他人の言うことに従う

第三に、より簡単な方法を求めている

第四に、厳粛な法の勉強に、常人の階級観念を持ち込み、他の人が自分よりもよく勉強していると思う

法を学ぶ時、私達は非常に純粋な心態でいなければならない。グループでの勉強において、同修が読んでいるのを聞いて、彼が執着無しに読んでいるかどうか分かる。ある同修は非常に早く読み、ある者は教科書を読むように読み、又ある者は言葉を抜かしたり、間違ったり、加えたりする。このような時には、彼らは執着心をもって読んでおり、彼らが創るエネルギー場はよくない。時にそれは他の同修にも影響する。一方、純粋な心で読んでいる場合、周りの者も良い心態で聞き、読むことが出来る。そして、一語一語の背後にいる佛道神も、彼らの次元において知るべき法理を自然に彼らに教える。