自分を実証する道は行き詰まり、大法を実証する道は行けば行くほど広くなる
− 双城での大捜査・逮捕から感じたこと −
文/大陸大法弟子
【明慧ネット2004年3月13日】この一文は、れんがを投げて玉(ぎょく)を引き寄せることが出来ればと思い書いたものです。(一石を投じることにより、良い影響が生まれることを期待するという意—校正者注)更に多くの双城の同修が討論し交流し、自分自身の足りない部分を探し出し、よりしっかりと、より理知的に、動揺することなくこの第一歩が踏み出せればとの思いが私の本意です。3月11日、明慧文章《痛ましい教訓》の中で、すでに非常に深刻に述べているように、双城の同修がみなこの文章を読むことを提案します。魔難の中で自分をはっきりさせ、教訓を受け入れ、正念を持って今回の邪悪を制止すべきです。手を尽くして獄中の同修を救出し、損失を減らして、確実に法の中で向上しなければならないと思います。
師父の《正念をもって悪事を制止する》の文章の発表から、正法はすでに新しい段階に入りました。まさに、大法弟子が悪人の悪事を制止して、全面的に真相の説明をする良い時機なのです。しかし邪悪は、双城で大規模な捜査、逮捕を開始し、気の向くままに逮捕し、家財を略奪するなど僅か何日かの間で40数名の大法弟子を逮捕し、その中の3人は迫害され死亡しました。これは深く考えない訳にはいきません。
心を静めてよく考えてみなければならないと思いました。本当に法の基準に合わせて良く行ったのであれば、邪悪が何故あのような大胆な行動に出ることができたのでしょうか?師父があり、法があり、道義上では許されません。それでは一体これはどういうことなのでしょうか?このような強烈な対照は何を意味しているのでしょうか?双城の同修には、心を静めて良く考えてみる必要がないのでしょうか?よく自分自身を見て、全体を考えてみるときっと問題のあるところが見つかるはずです。そうすれば、きっとこの第一歩をうまく踏み出すことができると思います。
双城で発生した事件に照らし合わせて、私は正念を持って一つの難関を乗り越えた体験を思い出しました。去年の7月、私は出社途中で、会社の610に拉致され強制的に洗脳クラスに入れられました。そこは大法弟子を迫害する悪の巣で、いわゆる教育を担当しているスタッフはみな労教所の悪党警官で私はみな知っています。そこに着いて、私は彼らの不法拘束に抵抗し、私に近付きさえすればすぐ真正面から悪人を見つめて、直接正念を発しました。昼食も拒否し、登記表記入も拒否しました。そこの責任者は私の手元からポケベルとメモ用紙を探し出し、それを口実に派出所に送り込むに必要な“判断”をするにはもう十分だと言いました。その後、派出所は私の家に乱入し、コンピューター一台、未使用のCD−ROM100枚、大法のスローガンなどを奪って行きました。また、派出所は支局の刑事警察に私を尋問するように指示しました。私は口をつぐんで一言もしゃべりませんでした。その時一つの念を持ちました、“命ならあるが供述することは何もない”(実のところ、本質上では或る程度の迫害を黙認していました。ただ部分的な表面形式上で断固として協力しないだけでした)。彼らのどんな計略にも関わらず、私は協力しませんでした。いわゆる常人の不協力であって、邪悪が私を試しに来る資格がないとの悟りではありませんでした。私はそれらを取り除きました。最後、彼らは仕方なく、私を留置場に送り込むしかありませんでした。
逮捕されて留置場に送り込まれ、2日間水一滴も飲みませんでした。留置場に来て8、9日間絶食している間に、すでに二回も食物を注入されました。注入する時、医者は私がこっそり水を飲んだと言って、氷のように冷たいコンクリートの上に座らせ、更に犯人に私を侮辱させました。この時になって初めて、私は自分自身について本当に改めて考え始めました:私のどこかが間違っているのではないか?私はずっと邪悪に協力せず、ずっと迫害に反対していたつもりでしたがなぜ正々堂々と出て行くことができないのか?私は出て行くことに執着しているのではないか?いや、ただ一途に邪悪に協力しないようにと思うだけであまり多く考えていませんでした。一体どこが正しくなかったのか?
細かく考えてみると、気になるところが多過ぎました:そっと水を飲んだり、横になりたければ横になったり、それに体力を保つために食物注入を止めようとしました;犯罪者に対しても心の中で私は今絶食しているから、悪党達は私をどうすることもできないだろうと思っていました。遂に私は自分の執着が潜んでいるところを見つけました:私は自分を実証するだけであって、大法を実証しているのでありませんでした。私の出発点は歪んでいて、表面上ではずっと邪悪を止めようとしており、断固として邪悪に協力していないつもりでしたが、実際は私自身の修煉の成績を実証しているだけでした。私は労働教養所にいたことがあり、悪党達のこれらの何も考えていない粗雑なやり口では、私を動かすことはできないと思っていました。ましてや私達のその地区では私が良く行っていることをみんな知っているため、尚更、今回は必ず正々堂々とやってみせるという思いが心の奥に隠されていました。このような極限の情況下でないと悟ることはとても難しいのです。
私ははっきりと目覚めました。私は大法を実証するために来たのであり、あの犯罪者、公安部門の幹部や警官が目にしたのは、すべて大法の形象です。私は法の中の一粒子であり、私が一歩でも前へ進むことができるのであれば、決して歩けないふりを装ってはなりません。私に何かできることがあれば絶対に自らやり通して、決して他人に頼ったりしないと決心しました。突き詰めて言えば、自分を絶食者としてではなく、一人の正々堂々とした大法弟子として法を実証し、すべてを良く行い、全てを正しくやり通さなければなりません。
このようにして周囲の環境にも変化が起き、犯罪者は私に対してもう勝手気ままに扱うことがなくなりました。しかもボスまで私に、“誰があんたに力を貸しているのか知っているかい”と聞きました。私は彼にかすかに微笑みました。公安部門の幹部と警官はもう悪事を働きませんでした。実際点呼を取る時、彼らは何時も私にあれこれと情況を聞いたりして、後には汚い言葉で罵ったりしましたが、今は近くに来て一目みるだけで済ませるようになりました。およそ12、3日で、配偶者が保証人となり私は家に戻ることができました。
ここまで述べてきて、この体験が双城の同修にほんの僅かでも参考になればと思っています。大法を実証することは自分を実証することとは天と地の違いです。自分を実証する道は行き詰まり、大法を実証する道は行けば行くほど広くなり、それは真っ直ぐな天に通じる大道です。
常人の中でも度胸がある者、死を恐れない者、何でも思い切ってやれる者、しかも凄まじい勢いで大規模にみんなに知らせ、自らすっかり満足を感じている者がいます。それこそが常人ではありませんか?それこそが自分に能力があることを実証しているのではありませんか?ここから喜ぶ心、やりたがる心、名利を求める心が膨張し始めると極めて危険なのです。
実のところ、自分のすべては法の中から来て、すべての能力も法の中から来ており、何一つ自分のものではありません。あなたは一体誰に見せ付けているのでしょうか?ある同修は双城でこれだけ大きな損失を受けている情況下でも心を静めて、良く法を勉強し、自分の中で原因を探そうともしません。かえって気を入れて大いにやるつもりです。
過去の教訓は深刻なのです。ある地区の資料ステーションは生産量が大きくて、表面上でみると良く行ったはずです。しかし喜ぶ心、名利を求める心、やりたがる心、大きな仕事ばかりやりたがる心などが引き起こされると、他人の意見をどうしても受け入れにくくなり、結局資料が破壊されて、多くの優れた大法弟子達が逮捕され、重い刑罰を科されるなど支払ったのは血の代価でした。
そのためにこの体験から得たものを書いたのです。双城の同修が痛みを抑えて真面目に考え、自分自身を真正面から見て漏れているところ、欠けているところをできるだけ早く全体的に補って、本当に一つの金剛不破のような全体となって、しっかりとこの一歩を踏み出すことを期待しています。
不当なところは、是非ご指摘下さい。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/3/13/69816.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/3/25/46404.html)
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