日本明慧


修煉者は生活の中で至る所に基点と心性を表す

文/瀋陽の大法弟子 

【明慧ネット2004年3月25日】生活の中で小さい事があって、ずっと同修と交流しょうと思っていた。そこで今日は、自分が悟ったことを書いて話したいと思います。 

私は今年32歳になります。《婚姻法》によって、農村では一組の夫婦に於いて第一子が女の子だったら、第二子を産む事ができます。それでも私はいつも自分が修煉者だという思いから、更に子供を欲しいとは思わなかった(実際は自分の修煉に影響されることを恐れる)。師父の法はすべてを覆っているが、私は法理に対する認識が出来ず、ずっとこの問題を解決できなかった。親戚、友達はいつも私にどうして子供が欲しくないのかと聞いた。始めはいくつか口実があったが、やがて言う言葉がなくなって、自分でもこのことに対してとても困惑するようになりました。このようにして二、三年が過ぎました。
 
私は師父の《2003年カナダバンクーバー法会での説法》の中の文章「明日圓満成就しても、今日はまだ分からないから、会社を興そうと考えていれば、そうすれば良いのです。しかし、全ては私が圓容してあげます。何も考えないでください。やるべきことをやれば良いのです。」を読んでいて突然解答を得ました。私は家族がみな修煉してないので、もし子供が欲しくないと言ったら、彼らは私をどう考えるだろうかと思っていました。また法を学ぶことを通して、この問題から多くの執着心を探し当てました。たとえば法を学ぶことや煉功することあるいは円満に影響しないだろうか、そして同修たちに理解されるだろうかと言う恐怖心でした。その根源を掘っていくと、一つの字“私”が出てきたが、実はこれがすべてでした。師父はまさに私達に正覚として“無私無我であることを修煉し、先に他人を私は後で”と説かれたが、私の思想と行為は法に背理するものでした。

子供が要るかどうか、何人子供が要るかなどは全部私自身が生活する中の事でした。この事は当然人によって異なり、全部一緒ということはありえない;同時に大法弟子は常人ではない。だからこれらの問題の上で自分の情や安逸心、あるいは常人のような口実を探してはならない。そして自分の条件の許す情況の下で更に大法を実証する事が最も重要なのだ。修煉の中で個人の生活様式に対しては具体的に定められていない。しかし、正念で対処でき、すべてをよく行い、極端に走らないようにできるかどうかに、修煉者の心性と基点を反映することができる。

師父は私達に最大限度常人に合わせて修煉するように説きました。しかし私は法をよく学ばなかったため、ある出来事に出会うと、それにどのように対処すべきか分からず、法に基づいて認識できなかったのです。今後、私は多くの法を学び、“皆さんの正念、やりたい全ては皆法から来ています。ですから、いくら忙しくても、法の勉強をおろそかにしないでください。”(《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》)、と言われたように師父の按配した道を歩いて、極端に走らないようにします。

師父は《洪吟》中で“做して求め不(ざ)れば、常に道中に居る”と詠まれました。修煉とは常に自分の心を修煉することであると言う師父のこの言葉を、私は永遠に忘れません:“しかし、皆さんは極端に走ってはならず、如何なる極端にも走ってはいけません。極端に走ってしまうと、私が按配してあげたこの道、法のあなたに対する要求を破壊してしまうことになります。”(《2003年カナダバンクーバー法会での説法》)

以上は個人の認識するところです。どうぞご意見ご指導の程宜しくお願い致します。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/3/25/70835.html