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法輪功を迫害した元凶の首謀者江沢民(一)(写真)

 【明慧ネット2004年4月9日】(明慧記者:古安如、林展翔)明慧ネットは、4月7日の第一面で報道しているように、2004年の年初から4月5日までの3ヶ月の間に83人の法輪功学習者が迫害された。この迫害によって死に至った実例が確認された。これは中国政府の情報閉鎖にも関わらず、民間のルートを通じて伝わっています。83人の中で圧力に屈せず法輪功修練を貫いた学習者26人が2004年1月1日から4月5日までの3ヶ月の間に迫害されて死亡しました。

 3月15日第60回国連人権大会が開かれて以来、中国の人権問題は再度焦点になりました。中国江氏集団は法輪功を迫害する運動の中で犯した、人権を踏みつけるなどの深刻な犯罪に対して、更に国際社会から激しい非難を受け続けることになりました。

ワシントン法輪功学習者が大使館前で法律によって江沢民を処罰するよう呼びかけします

 江沢民は職権を濫用して個人の意志を無理に貫くため、密かに画策して組織を作りあらゆる部署を動員した。そして自らこれを指導し、法輪功に対して邪悪な弾圧と迫害を開始するよう命令を出た。江氏集団が系統的なうその宣伝とその犯罪行為を徹底的に隠蔽したため、人々はこの迫害の全貌を知る事がとても難しかった。しかし例えこのような状況であっても、中国大陸の法輪功学習者達は命の危険を冒してこの事を伝え出している。そして彼等の伝えている限られた資料により、人々ははっきりとこの残酷で邪悪な迫害の広さと深さを見抜くことができます。江沢民チンピラ集団の犯した犯罪は目に余るもので、激怒しますが紙面に限りがあり、本文では一々と羅列することができないと思います。

 本文の内容:
 一、 江沢民は一手で弾圧を引き起こしている。
 二、 自ら画策して部署とスタッフを動員配置した。
 三、 迫害を推進して、人間性壊滅を実行した国家テロリズム。
 四、 直接“人員移動配置”の指揮を取った。
 五、 デマ飛ばしと洗脳。
 六、 迫害は民族災難をもたらしている。
 七、 法律によって法輪功を迫害した元凶江沢民と共犯者を処罰する。

 一、江沢民は一手で弾圧を引き起こしている

 1992年5月から法輪功が長春で公開伝授されてから、急速に全国各地に広がりました。学習者は修練することによって、病気が治り健康になっただけではなく、道徳が向上するので人数は急速に増え続けて1999年初当には、すでに1億人に達しました。この過程の中で、政府部門は過去何回も表彰と奨励を与えて支持して、法輪功を認めました。党政府や解放軍の中でも多くの高官が法輪功を習い始め、心身共に利益を享受しました。当時、中央政治局常務委員の構成メンバー7人全員が《転法輪》を読み、彼らの家族や親戚、友人等の多くの人が法輪功を修練していました。

中国武漢法輪功学習者の集団煉功風景

 1、弾圧の原因と動機

 江沢民が総書記の座に登りつめた当時、中国の信条危機と道徳的な退廃はすでにかなり深刻な状態になっていました。特に、東ヨーロッパに於けるベルリンの壁の崩壊は当時中国の政権を握る集団に対して極めて大きな衝撃を与えました。1997年の“十五大”以降、江沢民は唯一の“核心”となり、権力を存分に満たすことが出来、私欲が膨張しました。自分の中で密かに“良く座ってやるぞ”と決意し、大いに個人崇拝をやり始めると同時に、自認したすべての敵対勢力に打撃を与えました。

 その時、法輪功は病気を治して健康を保つすばらしい効果で大衆を引き寄せていました。そして中国法輪功修練者はすでに一億人に達していて、江を“核心”とした指導下の党員の人数を上回っていました。すると、江は法輪功創始者の声望に嫉妬し、法輪功を敵視して、“真善忍”を打撃する中から武力の誇りと威勢を示す機会を探し出しました。恐怖と抑止を造って人民を言いなりに従わせて、江の“核心”を確立する事によって心理的な平衡を得ようとしました。

 法輪功を弾圧しはじめてしばらくして、江沢民は“ある重要な会議上での談話要点”[注1]の中で:“中央はソ連の社会主義制度がなくなった歴史的教訓にかんがみ、ずっと各種の反マルクス主義思想、信条と理論に対して批判を決心してきた。プロレタリアの思想の陣地を奪回して強化して、イデオロギーの領域で一回消毒を行っている。法輪功は“真、善、忍”を吹聴していて、私達に“消毒”に着手する機会を与えた。”と言いました。“比べて見るとその他の気功組織は、そんなに簡単に解決できない。全国で激しい動揺を引き起こす可能性が高く、甚だしい場合は暗殺、毒ガス、爆発などの暴力行為も起こり得るので、私達の仕事にかなり大きな障碍をもたらすに違いない。従って社会を安定にしながら破壊工作をしても、懲戒の効果を果たすことができない。しかし法輪功は“真、善、忍”を言っているので私達の打撃は思い切って行うことができる。そして、後に法輪功を打撃した経験を利用して、他の気功組織に有効に取り入れることもできる。”この中からは権利欲、嫉妬の残虐な人格が溢れ出しています。

 江沢民は、法輪功が“暗殺、毒ガス、爆発などの暴力行為”を行わず、社会の安定を破壊しないということを知っていながら、法輪功が言っている“真、善、忍”は対処しやすいと言って、思い切って打撃を与えました。しかも、社会上で歓迎されている法輪功のことを“党と(実際は江を“核心”としたその本人)民衆を奪い取り合っている”と歪曲しました。これも彼がどうして1998年部分全国人民代表大会退職老幹部調査報告の中で、法輪功を称賛したレポートに対して極めて大きな不満を抱いていたかの説明になります。

 2、法輪功に対して前々から企んでいた

 1997年の初め、江沢民の配下の羅乾は、職権を利用して公安部門に全国範囲で法輪功に対して1回秘密裏に調査を行うように示唆しました。本心は罪名をでっちあげて法輪功を取り締まることにありました。しかし、各地の公安部門の報告調査結果は、全部“問題なし”あるいは“まだいかなる問題も見つけられない”とのことでした。1998年7月、羅乾はまた中国公安部一局(また政治保衛局とも呼ばれる)を通じて公的政治[1998]第555号《法輪功に関する調査展開の通知》を出して、先ず法輪功に“邪教”という罪名を決め付けました。それから更に全国各地の公安部門に“もぐり込み調査”を指示して、証拠を探し集めようとしました。(後の各地公安のもぐり込み調査結果:法輪功の罪証は何一つも探し集められなかった)

 1998年の下半期、喬石をはじめとした部分全国人民代表大会の退職老幹部は、大勢の大衆からの手紙による報告で法輪功に対して調査を始めました。得られたのは“法輪功は国と国民に何一つ害がない”との結論で年末に政治局に調査レポートとして提出されました。報告の中で“人の心を得た者は天下を得、人の心を失った者は天下を失う”との昔の教訓に言及しました。江沢民は大いに不愉快になって、すぐさまうさんくさく書いているので私には意味が分からないと指示(大意)を与えて、報告を羅乾に回しました。羅乾は心底からわかっていて“法輪功は国外の政治的な背景がある”との理由を付けて、絶えず問題を引き起こして、法輪功に罪をなすりつけました。

 不法な調査と一部権力者の敵意に直面して1998年の年末、大陸の各界法輪功学習者の中から135人の社会的な知名人が立ち上がりました。北京大学法学部の教授が編集して、連名で当時の国家主席の江沢民と国務院総理の朱鎔基に手紙を出しました。そして公安部一局が上述した《知らせ》に対して法律で批判を行って、その文書自体が明らかに中国憲法と法律に背いていることを簡明に説明しました。

 この135人の社会的な知名人の手紙は早速朱鎔基の指示を得ました。指示の大体の要点は:“公安部は法輪功に面倒を掛けるべきでない、社会の治安問題に力を入れるべきだ。法輪功はここ数年国家の医療費を大幅に節約してくれた。”と書いています。しかし、朱鎔基のこの政府政策を表明した指示は、羅乾の個人意思で勝手に押さえ込まれ、法輪功学習者の手には入ることは出来ませんでした。1999年の4.25法輪功学習者が国務院に投書・陳情に行って朱鎔基総理に会った際、朱総理ははじめて指示が人に押さえ込まれたことを知りました。法輪功学習者達もはじめて朱総理から上述した正式な指示があったことを知らされたのです。

 3、嫉妬の爆発

 羅乾は他の連中の何祚?とグルになって、“天津事件”を演出しました。法輪功学習者を殴り、逮捕した天津公安の行動が基になり、何万人もの法輪功学習者達が自発的に中南海へ陳情に行ったため4.25事件が引き起こされました。朱鎔基総理と法輪功学習者の交流により適切な処理を得て、総ては直ぐに平静となりました。そして双方の理性と自制の態度は国際上で高い評価を受けました。

1999年4月25日法輪功学習者平和請願

 しかし、江沢民の怒りは爆発しました。“核心権威”を維持するために中南海“4.25”事件の当日、羅乾と関係責任者が江沢民に法輪功学習者の陳情情況を報告した時、江沢民は矢も盾もたまらなくなって、両手を振り回して“消滅してやれ、消滅してやれ、絶対に消滅してやれ!”と大きな声で叫びました。居合わせたスタッフは大きな驚きを感じました。

 1999年4月25日の夜、江沢民は毛沢東の“司令部を攻撃しよう”という壁新聞のやり方をまねて、連夜政治局委員に手紙を書きました。しかも、個人の郵便物を中央文件として出しました。“中南海事件”の第1回政治局常務委員会の打ち合わせで朱鎔基がちょうど:“彼らに練功をさせましょう”と一言言い出した途端、江沢民は憎々しげに彼を指して:“愚かだ!愚かだ!愚かだ!党を滅ぼし、国を滅ぼすぞ!”と叫びました。かつて“右派”の冤罪を受けたことのある朱鎔基は、それから法輪功に関連したことには沈黙を守りました。
 
 これらがはっきり表明しているように“4.25中南海事件”は、弾圧の直接原因ではなく、中央政府はすでに理性的に今回の万人の平和な陳情事件を処理し終えたのです。しかし、江沢民はすでに長い間法輪功を敵視していたので、高級官僚の多数の不一致な意見にも関わらず、政府総理の見識あるやり方を強制的に覆しました。そして法輪功は最大の敵であって自分の“核心”地位を脅かしているとしました。しかも共産党に無理に押し付けて、国家と党の名義と力を借りて迫害を始めました。これは完全に江沢民の権力欲、嫉妬と個人の意志によって引き起こされたものです。江沢民のこの暴威の前に、中国政府の各級機関の要員達は粛清を恐れて、沈黙しました。

 二、自ら画策して部署とスタッフを動員配置した

 権力の維持に強烈な嫉妬が生じた江沢民は、理性を失って公然と中国の憲法に背いて、強行に法輪功弾圧の政治運動を始めました。

 1、6月7日政治局会議上での講話

 1999年6月7日、江沢民は中国共産党政治局会議上で法輪功問題に対して講話を行って、中国共産党中央弁公庁は1999年6月13日江の講話を中央文件[注2]として、印刷配布しました。これは江沢民が法輪功を弾圧する一つの綱領性を持った講話でした。

 この講話の中で、江沢民は:“中央はすでに「法輪功」問題を処理する専門指導組織を設けている。李嵐清に組長、丁関根、羅乾を副組長に任命して、関連部門の担当者が構成員となって、統一して「法輪功」問題を解決する具体的な段取り、方法と措置を研究・検討して、中央と国家機関の各省庁、各省、自治区、直轄市は密接に協力して行く”と話しました。実は、江が言った“中央”は、彼自身であって当時の7人の常務委員の中で6人は弾圧に賛成しませんでした。

 江沢民は何の根拠もなく法輪功を“政治闘争”であると決め付けて、法輪功を共産党の政治敵であると言い放ちました。そして全党及び国家体制、暴力独裁機関を立ち上げて、弾圧のためにスタッフを配置しました。4月25日と6月7日の間で江沢民は具体的な実施要領から全面的で系統的な画策と配置まで完成しました。

 2、610事務室の成立──法輪功を迫害する恐怖機構

 江氏の6月7日の話によって、江氏集団は6月10日“法輪功問題を処理する指導グループ事務室”を創立した。こうして“610事務室”(あるいは略称“610”)は、産声を上げました。610は李嵐清を組長とした中央“法輪功問題処理指導者グループ”下で設置した方策と実行機構であって、中国共産党中央の政治と法律委員会に常設していて、専ら羅乾が中心となった。これを取り巻く構成員は中国共産党政治と法律の系統的最高法院・最高検察院、国家安全部、公安部、外交部、中央宣伝部などの政治的要員と部門の責任者であった。これは法輪功を迫害するために、江沢民集団が最高権力を利用して作った最も有能な政治恐怖の道具であった。その機能は法輪功迫害の総司令部として組織的に画策、密謀して各種行動を指揮し、法輪功迫害に関連する事務をすべて担当することである。その犯した各種の犯罪は目にするだけで恐怖を感じる書き難いものです。610事務室の配置は、江沢民が自ら画策した結果の表れです。こうして羅乾が力を入れている中央から地方の“610事務室”まで、国家法律を無視して、絶対の権力を持つことになりました。そしてその職権は裁判所、人民代表大会、国務院、公安部、検察院、を越えました。こうして思うままに法輪功学習者を逮捕或いは拷問して、すべての弾圧をレベルアップするよう条令を発布しました。本質から見て“610事務室”は、江沢民が制御する中央から地方までの暴力団・マフィアに類似した一つの不法組織であり、まったくの政治ごろつき犯罪グループそのものなのです。そしてその組織の発足と存在はまったく法律的な根拠もなく、完全に江沢民個人の権力と野心の産物なのです。

 その組織の構成員は専門の職務から政治迫害に従事して、完全に法律と政府機構を無視しました。この角度から見るとドイツファッショの“ゲシュタポ”、旧ソ連の“KGB”及び国家と人民に災いをもたらした“文革”の産物──“中国共産党中央文革指導者グループ”とすることなすことがとても似ています。その後続いて各省、市、自治区、直轄市の“610事務室”が次々と創立されましたが、それらは全て現地の中国共産党政治と法律委員会に従属しています。

 3、自ら裁決して弾圧を発動した

 系統的な組織を作り法輪功に対する綿密な画策と配置を計画し、すべての用意が整うと、江沢民は1999年7月19日の夜、上層部の会議を招集した。そして認識を“統一”すると言い出し、自ら裁決して法輪功を取り締まると発表しました。そして全面的に弾圧を開始しました[注3]。7月20日の夜明け方から、全国一斉に統一捜査を開始し、大勢の“法輪功学習者”を逮捕しました。江沢民の法輪功に対する弾圧は数年にわたる計画と準備を経て、ついにそのベールを脱ぎました。7月20日、江沢民は“中央”の名の基に法輪功を全面的に取り締まるよう13号文献を下達して“これは厳しい政治闘争”であると公言しました。

 7月22日午後3時、全てのテレビ番組を中断して、江氏集団は中国共産党中央、公安部、民政部の名で中央テレビ局を通じて全国に“法輪大法研究会”を取り締まると報じました。そしてこの報道は法輪功を公然と“不法組織”だと決め付けて宣言しました。同時に、外交部の記者会見でも諸外国に対し同様な宣言をしました。その後、江氏集団に操られた政府マスコミは一斉に騒ぎ出し、あらゆる文章を駆使して、法輪功に対して全面的な“文革”式の批判とデマを飛ばし始めました。全国から大規模で熱意を持って陳情に行った法輪功学習者を逮捕したため、全国は殺気で充満しました。それ以後、大量に法輪功書籍を焼却して、多くの法輪功学習者を逮捕しました。そして暴力と労働による再教育、残虐な体刑、及び刑法の条項の補充説明など弾圧手段は絶えずエスカレートしました。

 1999年7月20日、綿密な組織的な陰謀による法輪功に対する「思い切った打撃」大逮捕計画が幕を開きました。同時に法輪功学習者の鮮血と命で守った人間正義の壮烈な歴史が始まりました。そして法輪功学習者を見抜くため政治上の問題の性質を決めた。江沢民は主導権と決定的な作用を発揮し、画策から組織化、部署の設置、人員の配置まで自ら裁決して法輪功を弾圧した。当時江沢民は中国共産党総書記、国家主席、軍事委員会主席の三大要職を兼ねていました。権力が集中したため、当時7人の常務委員の中で6人が同意しなくても、江沢民は強行に個人の意志を遂行する事が出来た。そして1999年から段階的に全ての部署に対して弾圧に力を入れました。至るところで嘘の宣伝をすると同時に密令を下し弾圧の源になっていた。江沢民はまぎれもなく法輪功迫害の元凶であり、総ての画策の監督そのものである。

 三、迫害を推進して、人間性壊滅を実行した国家テロリズム

 法輪功に対する今回の弾圧は、完全に江沢民が一人で政府官吏を脅迫して従わせたものなのです。宣言から実行まですべて中国憲法に背いたものであって、完全に江沢民個人の嫉妬とうその宣伝を基礎として作り上げたものです。“取り除く”目的を達成するために、江沢民は各方面で系統的に部署を配置しました。そして全力を尽くして迫害を推進し、人間性を壊滅する国家テロリズムを推し進めました。邪悪な弾圧の歴史からわかるように江沢民は“デマで先陣を打っておいて、独裁機構を後にしました。

 1、政治と法律上で問題の性質を決める

 江沢民は6月7日の講話の中で法輪功に対して政治上では“政治闘争”だと決め付けた。そして7月20日の弾圧時には法律上の“不法組織”だと決め付けました。法輪功を迫害することで党内の多くの人々から反対に遭いました。近代社会が法治国家に発展しようとしている形勢下で、江氏の赤裸々な政治による誹謗中傷と弾圧は、法律上でひとつの恥隠しのベールを探さなければなりませんでした。

 1999年10月25日、フランス訪問中の江沢民は《フィガロ新聞》取材を受け入れた時、また憲法に反して法輪功を“邪教”だと言いました。《人民日報》は “文革式”の口ぶりの命令を受けると、直ちに法律を凌駕して、特約評論員の署名のない法輪功の性質を決定付ける文章を発表しました。これは事実の確認もせず口から出任せのうそのでっち上げでした。法輪功迫害に“法律的根拠”を造るために江沢民は、再度全国人民代表大会常任委員会を促して慌しく1999年10月30日に定義さえはっきりしていない“邪教法”を盾に、同年10月に登場したいわゆる“法律”を使って、1999年7月20日の弾圧が全面的に公開される以前の“法律責任”を“追及”すると言い出しました。しかし、この曖昧な法律に違反する“回顧効力”の法案は結局法律上の空白を埋めたに過ぎませんでした。しかも、江沢民は不法行為のためにいわゆる“法律”の根拠を作り上げて、法制の上着をはおって、“法治”の場に上がりました。そして江氏は違法手段を使って“合法”的効果を造り、法律の名を借り政治な性質を強引に引き延ばした行為を覆い隠そうとしました。

 AFP通信2001年3月12日の北京報道によると最高人民法院院長の肖楊(音訳)は、人民代表大会代表から厳しい回答要求を求められました。その代表の一人陳麗?(音訳)は、中国の司法システムは人権に対して尊重が欠けている、日に日に深刻な問題となり、しかも政府の法輪功精神団体に対する19ヶ月に及ぶ弾圧には“深刻な自己矛盾”に陥っていると不平をこぼしました。

 2、根絶政策と総方針の制定から具体的な実施まで

 江沢民の“取り除く”の“三光”総方針は:“名誉上で汚し、経済上で打ち切り、肉体上で消滅させる”というものです。これ以外にも、また“610”を通じて様々な具体的な秘密命令を出しています。例えば:“法輪功に対していかなる手法を使ってもやり過ぎではない”、“打ち殺してもただである”、“打ち殺して自殺にする”、“身元確認せず、直ちに火葬する”などです。

 いつも祝日あるいは敏感な日に近付くと江氏集団は“消滅させる”あるいは“取り除く”などの類の命令を出して、全国の至る所で法輪功学習者を逮捕しました。

 上文の中で言及した江沢民の“ある重要な会議談話の要点”の中で、江は更にどのように法輪功内部に矛盾を造るか、“特別行動グループ”に引き続き行動を強化するように命令した。そして多種多様な予定案を設計し、暗殺行動をしながら失敗を許さない……などの具体的な説明までしました。

 うそとペテンを暴き出し吉林省の人民に法輪功と迫害真相を理解してもらおうと、吉林省長春の一部の法輪功学習者達は勇敢にもCATV(ケーブルテレビ)放送チャンネルを切り替えて、情報閉鎖を突破して迫害を暴露しました。彼らは2002年3月5日長春市と松原市で《法輪大法は世界に伝い渡る》、《自噴なのかそれともペテンなのか》などの法輪功真相ドキュメンタリーを放送しました。この壮挙は世界を揺り動かし、江氏集団は驚き恐れて激怒しました。江沢民はヒステリー的に“殺無赦”(許すことなくすべてを殺せ)とひそかに命令しました。しかも全国各地で死亡名簿を制定しました。中央“610事務室”ボスの劉京などは長春に潜伏して、“期限内の解決”の指揮を取っていました。これらを機会に吉林省でははばかることなく法輪功学習者を逮捕したので、しばらくの間長春は恐怖に包まれました。長春地区だけで5000人以上が逮捕されました。拷問と自白を強いられる途中で、数人が殺害されました。テレビのチャンネルを切り替えて放送を行った法輪功学習者達は不法に逮捕された後、全員残虐な拷問によって自白を強要されました。しかも刑罰は不法に重いもので、最高20年の刑期もありました。今回のテレビチャンネルを切り替えて放送した行動の主要人士劉成軍は逮捕されが、警官は手錠と足かせを掛けた状態の彼の足に二発の銃弾を打ち込みました。その後も劉成軍は留置場で残虐な拷問を受け続けました。警官は彼を52日間に亘り刑具に座らせ、21ヶ月に及ぶ残忍な拷問を繰り返しました。その結果、彼は2003年12月26日ついに迫害されて死に至りました。

 4年に亘り江沢民は“610事務室”を通じて億万人の法輪功学習者に対して絶滅政策を実行しました。法輪功学習者をあらゆる手段を講じて逮捕し、監禁して拷問しました。さらに罰金、解雇、“転化”の強化を謀ると共に、全ての国家マスコミを利用して嘘の宣伝を流しました。そして人々の憎しみを煽り、国民全体が法輪功に反対するように強制しました。法輪功学習者に対する残虐な拷問と多くの迫害事実は、紙面の関係でこの文章ではしばらく省略します。

 3、国家体制を動かして法輪功を弾圧

 江沢民の国家全機関を利用した法輪功迫害は、全面的で系統立った組織であり、計画的で、陰謀的なものです。これは中央から地方(省、市、県、区、鎮、郷など)の各級政府と機関まで、全ての人、物、金を動員したものです。さらにあらゆるメディアを操作すると共に外交から家庭にいたるまで全てを利用した残虐な迫害なのです。国家法律は江氏集団の都合の好いように改ざんし歪曲して法輪功を迫害しました。江氏集団は国家の体制と法律、国家政策の法令、国家全体の機関を利用して法輪功を迫害した犯罪グループなのです。

 4、民意を踏み躙って署名を行った

 江沢民及び610事務室は、法輪功学習者に様々な迫害を行って、深刻に人権を侵犯しています。国際社会の正義ある厳しい非難から逃れるために江氏集団は、署名という芝居を演出しました。権力を利用したうそに惑わされている中国大陸の民衆は署名をして法輪功迫害を“支持”しました。しかし、事実上署名者の中で喜んで江氏に利用されているきわめて少ない一部の人を除いて、大勢の署名者の中で法輪功真相が分かっている人は果たして何人いるのでしょうか?またどれだけの人が江氏の法輪功に対する迫害の真相が分かっているのでしょうか?その上このような署名の多くは、統一して求められるか会社を指名して係員を派遣し、小中学校に命令するなどして行われました……江氏は完全に民意を踏み躙っているのです。正当な法律行為なら、何故このようなやり方で民衆に態度表明を押し付けなければならないのでしょうか?

 5、うそと迫害を国外にまで伸ばしている

 1999年9月、ニュージーランドで招集されたアジア・太平洋地域の経済貿易協力会議(APEC)上で、当時中国国家主席の江沢民は自ら法輪功を攻撃した小冊子を会議に出席した各国の指導者にプレゼントしました。江のこのような形振り構わぬ挙動に多くの西方外交官と指導者は、この意外な行動に開いた口が塞がりませんでした。

 江沢民のでたらめな挙動は海外に駐在する中国大使館の“模範”になっている。そしていくつかの大使館の政治用心棒らはそれを真似て、駐在国の政府と社会各階層の人士に法輪功を中傷する大量の資料を配布して、国際社会を毒害しています。江氏集団はまた経済的な利益を手段に使って国際社会を誘惑し、いくつかの国際世論が法輪功迫害に対して沈黙を持ち続けるようにさせました;国安スパイが国外で海外の法輪功情報と学習者リストを収集して、ブラック・リストを作成しています;大使館の一部の江氏政治用心棒は直接現地政府が法輪功を支持する正当活動に関与して、法輪功学習者を混乱させています。

 四、直接“人員移動配置”の指揮を取った

 江沢民と羅乾は舞台の裏でいろいろと知恵を絞ってあくせくと指揮を取りましたが邪悪な弾圧は最初から大衆の支持を得ることができませんでした。山東省、遼寧省など少数の省を除いて、多くの省市は弾圧に対して興味を持ちませんでした。弾圧の指令を無視し、甚だしきに至っては裏で食い止めました。弾圧が益々大衆の支持を得られなくなった維持下で江沢民と羅乾は“連帯責任制”を取り入れて、次から次へと脅迫と利益誘惑で圧力を掛けました。多くの省市地方の官吏は次から次へと中央を見習い、大金を支出して、あらゆる犯罪者をごろつき用心棒として“610”事務室に増員しました。そして奴等用心棒達に高い官職と高額な報酬を与えました。これらのごろつき用心棒達は買収されると命がけで駆けずり回りました。一時多くの地方のごろつきと犯罪者が“610”の編入幹部になりました。例えば、四川省のある麻薬密輸犯罪者は公安局副局長から無罪釈放されて、さっと変身して県の“610”の責任者になりました。しかも、罷免されていた官吏を復職されました。彼が就任して真っ先にやってことは、憲法と法律を無視して、有無を言わせず県政府のすべての法輪功学習者を拘禁することでした。

 江沢民及び共犯者らは、直接全国各地で迫害を指揮しました。例えば電話での助言、あるいは人の派遣、あるいは“検査巡視”、座り込み指揮など様々です。ここでいくつかの例を挙げます。

 1、1999年7月に弾圧が始まると、江沢民は自ら吉林省委員会の主要責任者である王××に電話をかけて、吉林省は弾圧の重点であると指示して、協力してこの血生臭い弾圧を加えるように示唆した。吉林省法輪功学習者に対する迫害を強化するために1999年法輪功学習者迫害に腕利きの林炎志を吉林省委員会に派遣して法輪功弾圧の副書記に任命して共犯者と用心棒になり切らせました。林は任命されるとすぐ殺気立ち、全省各労動教養所まで行って自ら“暴力転化”を指揮した。そして彼は“めった打ちする”、“死ぬほど打つ”、“銃殺刑にする”、“全部殺す”などと叫びながら直接迫害に手を出しました。更に彼はたくさんの世の中の惨事を監督しました。

 2、日に日に弾圧を維持していくのが難しくなると、江氏は自ら出向いて弾圧を監督し激を飛ばしました。例えば、広東省の消極的でいいかげんな対応に江沢民は2000年2月に広東に巡回県検査に行って、自ら弾圧を監督し激を飛ばして法輪功に対する“弾圧の力が足りない”、“弱い”などと批判しました;また李長春を政治局の会議で“自己批判”をさせました;また自らシンセン市委員会にファックスを出して彼らに“陣地をしっかり守る”ようにと指示を出しました。江沢民と羅乾の強い圧力下で、広東はついに2000年2月法輪功学習者に対する労働教養を開始しました。しかも第一番目の労働教養学習者の中には胡錦涛の大学時代のクラスメートもいました。事情を知っている人は:これは江の一石二鳥の狙いであり、一つは広東省で法輪功弾圧の先例を作り出すこと(胡錦涛の学友さえ刑罰から逃れることができないのにほかの誰が逃れることができると言うのか?)、もう一つは胡錦涛に“学友を売った”、“人徳も義侠心もない”と恥辱の烙印を押すことであった。暴君になるためには一群の人間を探して道連れにするものです。

 また例えば、2003年サーズが発生した期間中、疫病を避けるために江沢民は北京から逃げ出しました。しかし、ずっと法輪功迫害を忘れず5月に江沢民は遼寧省大連市に駆けつけたので大連市政治と法律委員会、市公安局は数名の法輪功学習者を逮捕しました。その後遼寧省政治と法律委員会、省公安庁は秩序を整えるという理由で全省各市、県(区)に刑罰、教養、拘留人数などのノルマ(実際は法輪功を狙って出したもの)をかけました。そして全省で最後から5位に入った市、県(区)の公安局長に免職処罰を与えました。

 3、羅乾、劉京などは各地に行って法輪功迫害情況を調べました。例えば、2000年の9、10月、羅乾は自ら遼寧省馬三家教養院に拠点を構えて、そこで確固不動な18人の法輪功女性学習者の服を脱がせて男性の牢獄に投獄するなどの暴行を加えました……

 2001年、羅乾は吉林省長春市に来て法輪功迫害を調査した。そしてここの“転化率”に対して大いに不満を持った。すると洪虎(吉林省省長)は驚きのあまり縮み上がって、4月5日長春朝陽溝労動教養所に“転化強化”の命令を出して、そこの法輪功学習者に対して一回凶暴で残虐な迫害を行いました。

 2002年2月の旧正月の前夜、中央“610事務室”のボスの劉京は吉林省長春市南湖ホテルで法輪功迫害の配置会議を開きました。会議の中で劉京は足を踏みならして烈火のごとく怒って吉林省は仕事に最善を尽くしていないと批判して、“徹底的に取り除け”と、死の命令を下達しました。法輪功真相資料を配布する法輪功学習者に対して“発砲命令”を出したのもこの会議でした。その後、長春市公安局は法輪功学習者に対して連日連夜に亘り捜査と逮捕を繰り返した。当時の下達された命令は:法輪功の学習者がスローガンを貼ったり、横断幕を掛けたりするのを発見したらその場で射殺しても良いというものでした。

 明慧ネットは、かつて報道したように黒竜江省密山市と遼寧省鞍山市で次々と法輪功学習者に対する銃撃事件が発生しました。その中で2002年2月16日(旧暦の正月の5日)遼寧鞍山市の警官は不法に3人の法輪功学習者を逮捕する際、拳銃を使用しました。その時、一人の警官が立て続けに発砲した4発の銃弾が学習者の足に的中しました。さらに、黒竜江省密山市警官の杜永山は、元旦の早朝2時ごろ法輪功学習者姜洪禄が法輪功真相チラシを貼っているのを発見すると、発砲して重傷を負わせ足を切断させました。

(続く)

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/4/22/72943.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/4/22/47297.html