日本明慧


法を勉強するとき、法を暗記するとき、分別する心を生じないこと

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年4月25日】法を良く勉強することは大法弟子にとってまずしなければならないことである。これもすべて法を証明できる前提と保証である。法を勉強するときに落ち着かず、先生に、そして大法に対して不敬な念を抱くなどの要素はみな法を勉強する時の質と効果に影響する。法を勉強する時のもうひとつの障害は、先生の説法に対して分別する心を持つことである。頭の中で先生の説法を “重要"と“それほど重要ではない"、“自分に関係がある"と"自分に関係がない"と分けて、先生が例を示しながら説く部分より法理を説いている部分が重要だと思ったり、先生の説法の方が質疑応答よりも重要だと思ったりする。先生が学員の質問に答え、ある問題が自分に当てはまれば、或は先生がたくさん説いて下さる部分は重要だと思い、ある経文はその他の経文より重要である等々、また、同じ経文の中でもある段落は最も重要だ、などの考えを持っている。このような正確ではない思想は表に現れないかもしれないが、時々自分が意識せずとも、法を勉強する時に現れてくる。これはすなわち法を勉強する時に選んで読んだり、或は“間接的に選んで読む"ことをしたり、ある説法はよく読み、ある説法はあまり読まない、ある内容ならまじめに読むが、ある内容ならざっと読んで終わってしまう、などである。この問題は法を暗記するときに更にはっきりと現れてくる。ある説法は喜んで暗記するが、ある説法はあまり好きではない、またはある説法は非常に真剣に覚えるが、ある部分は全然覚えられない。同じ経文の中でも、ある段落を“よく言ってくれた"、“非常に重要"或は“自分に非常に当てはまる"と思い、そればかり暗記し、ほかのものは暗記しない。これらはすべて法を勉強する時に現れた不正確な状態である。それが学法の質と効果に大きく影響した。

 このような状況を作った原因はいろいろあるが、その中の重要な原因の一つは、字面に執着し、自分の感覚に執着し、感性的に大法を認識して、本当に理性的に大法を認識していないからである。表面の文字はただの文字で、本当に作用するのはその内包であり、実質的な向上や劇的な変化は別空間で起き、私達はそれを見ることができないし、感じないのだと先生が説かれたことがある。我々は法を勉強するとき、表面の文字と後天の観念に左右されず、我々の感覚で“重要"或は“重要ではない"、“自分に関係がある"或は“自分に関係がない"などの判断をせず、実質的にすべてが重要であり、すべては我々に関係があることを認識すべきである。法を勉強するとき、連続的に、完全に勉強して初めて法の中身を読み取ることができる。自分の好みで読み飛ばさず、自分の判断で一段落ずつ定義や意味などを決め付けず、大法に対して分別する心を持ってはいけない。間接的に選んで読む、などは実際、大法に対する尊敬の念が足りないのである。もちろん先生の説法は大量にあり、大法弟子もあまり時間がないので、ときにはポイントを絞って法を勉強したり法を暗記したりするが、それは正常である。或は法を勉強するときある箇所が自分の執着心を指摘し、或は何かを悟ったとき、もう少しその箇所をよく読む、などは正常である。

 しかし考えの中に分別心をもってはいけない。それが習慣になってはいけない。法を暗記するとき、連続的に暗記したほうがよく、同じ経文なら完全な形で暗記すべきである。大法に対して分別心を持つもう一つ重要な要素は個人の執着である。ある同修は根本的な執着を持っていて捨てたくないので、自分の執着心を指している所を読み飛ばし、法をもって自分を照らさない。家にいて外に出られない人や道を誤った人にその状態がはっきりと現れる。

 先生が異なる状況のもとで説かれた説法の内容は異なり、対面している学員の修煉状態が異なり、ときどき採用する文字も形式も異なる。学員の教育水準や好みが影響し、時にはその面で執着心を持つ。たとえば古文が好きな同修は先生が古文で書いた経文や「洪吟」をもっと好む。もちろん先生は古文の文字が美しく、奥が深いとおっしゃった。しかし先生が説いているのは法で、常人の文学作品ではない。いかなる文字形式も先生が説法のとき必要に応じて随意に利用しているだけで、我々は表面の文字に採用された形式に執着してはいけない。

 先生が言っている一文字一文字すべてが法である、すべての文字の後ろに無数の仏や神や無尽蔵な内包がある。大法弟子として、法の中のすべての文字に対して尊敬し、大事にしなければならない、絶対分別する心を生じないで下さい。

 以上は個人の体験で、不当なところがあれば、ご指摘をお願いします。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/4/25/73102.html