日本明慧


《訂正》より、師父と法を敬うことについて論ずる

 文/海外の大法弟子

 【明慧ネット2004年4月28日】明慧ネットの文章《字の訂正から修練を論じる》を読んで、感動したことがあります。師父の経文《訂正》が発表され二週間の間、私は心の中で、ずっとこの事を考えていたのですが“忙しい”ことを口実に、着手しなかったのです。

 このプロセスの中で、かつて周囲の何人かの同修と交流したのですが、いくつかの異なる障害があることに気付いたのです。この時、私は真に自分を省みたい、と思ったものです。私には以下のような悟りを感じたことがあるのです。

 大法の本は私達の修練を指導する本であって、この大きな宇宙の法である大法の本を訂正することは一つの神聖で厳粛な事です。師父がすでに法を説いていらっしゃるのに、私達が忙しいからと言って、後回しにしてはいけないのです。私達は師父の述べられた通りに行わなければなりません。個人的な考えですが、結局は、訂正作業をしようともしなかったところに私達の肝心な問題があるわけです。私達に少なくとも訂正したいと言う願望だけでもあるのなら、私達は真心を込め、師父の話を聞くべきだったのです。

 ここで私は一つの事に思いあたりました。それは、個人修練の時期のある時に、師父が新しい経文を発表したことです。師父は次のように述べられました:“ここであなたたちは心落ち着かせ、皆さんが経文と読んでいるわたしの書いた『精進要旨』を十回読むことをお勧めする。心静かでなければ、法を学んでも意味がないので、心静かにしてから法を学びなさい”と。ある一人の海外の学習者が言われた通りにしました。十回読んで、しかも当時の他の学習者にも教えたのです。ある人は、それはたかが師父の一種の例え話ではないか、本当にそうしろうとは求めていないのだ、と彼を笑いました。あとでこれら他人を嘲笑した人達こそ、自分なりに良く修練していると自慢しながら、結局は、真相を説明することに立ち上がらなかった人達だったのです。

 師父の法は、すべての弟子に説いた法であって、自分はその中に入ってはいないと思ってはいけません。自分が“一番忙しい”、自分は比較的、特別であるとは思わないで下さい。はなはだしきに至っては、考えの深い所で、師父の経文は他の問題に関して書いていて、その文化の変異を理解さえできれば、文字は訂正しなくてもよいのだ……と勝手に推測しています。私はこれらの考えと障害は、最も基本的な問題を暴露している、と感じたわけです。つまり、どのような心理状態で師父の説いた法に接するのかということです。もし、いつでも自分の目の前に現れているちょっとした現象や、ちょっとした理で推測するならば、必ずかたよったズレがあります。

 そのほか、私は邪悪が大法弟子に与えたこのような巨大な苦難の中、師父の経文は正法修練の状況下で絶えず学習者を指導していると思うのです。なぜ、ある学習者達は正法の進展の中で良くぶつかったり、くじけたりし、はなはだしきに至っては一つの次元に立ち止ったまま抜け出すことができないのでしょうか? 私はこの中の一歩一歩のすべてに自分の観念、考え、執着を優先するか、あるいは師父の法を第一にするかの問題があると思うのです。師父の説いた法の多くを私達は現在の次元の中で、たった一回で悟り得ることはできません。各空間にはそれだけ多くの要素があり、私達にできることは師父の法に従って良く行うことだけなのです。本当に純粋で成熟した心理状態で法に接してゆけば、私達の修練はもっと早く、私達の使命はもっと素晴らしく完遂でき、残る悔恨も少なくなるはずです。

 個人の悟りです、妥当でないところは同修のご指摘をお願いいたします。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/4/28/73158.html