日本明慧


“邪悪”という言葉に対する認識

 文/大陸大法弟子 臨風

 【明慧ネット2004年4月30日】普通の人々に真相を伝えるとき、よく"邪悪"という言葉を使っている。しかし使うときに、なにか違和感を覚え、自分個人の感情が入り、邪悪への憎しみを感じていた。先生の説法の中にはたしかに“最も邪悪な人"、“政治ごろつき集団"、“悪首"などの単語があったが、これらはすべて事実であり、しかし自分ではなにかすっきりしないものがあった。自分が他の人を評価するのに、何か“善ではない"ように感じていた。しかし先生の「洪吟(二)」の詩を読んで:

 危ない
 世の中の道徳が落ち、人々が悪い流れに力を貸す
 腐る鬼が頭になって、人々がそれに追従する
 私は世の人々を心配する
 世の人は自分に心配しない

 私は本当に認識できた。先生が邪悪の本質を我々に教えたのは衆生への慈悲であり、最終的に衆生を済度するためである。邪悪は衆生を迫害しているが、我々が彼らに教えなければいけないのではないか?私はこのとき本当に分かった。私は昔、自分の執着のために、法の上で邪悪を認識することを阻んできた。先生がどんなことを行ってもその出発点は“皆、衆生のためにここに来たり"であり、先生が我々に邪悪の本質を教えたのは、我々がそれらを憎むためではなく、我々が衆生を救うためである。もし我々が衆生に邪悪を認識することに手を貸さなければ、彼らの多くは邪悪に追従し、永遠に帰れない所に落ちるだろう、これは損失ではないだろうか?

 この点を認識し、邪悪という言葉を言う時、憎しみはなくなった。私は衆生が邪悪の本質を認識できるよう、彼らが自覚して危ない境地から出てこられるように願っているだけである。

 個人の認識なので、皆さんのご指摘をお願いします。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/4/30/73495.html