日本明慧


心を正す

 文/大陸大法弟子 

 【明慧ネット2004年4月23日】数日前、農村地区で真相のチラシを配る途中出会った老人が、私にある修行の物語を聞かせてくれました。聞いた後すこぶる感動があったので、正法中真相を伝えることにまだ参与してない同修の助けになることを望み、今日文章にすることにしました。

 昔、ある心の優しいおばあさんが精進料理を食しながら修行をしていました。ある日家でお経を唱えていると、外から線香売りの人の声がしたので、おばあさんは仏様の供え物としてすぐにお香を買うことにしました。ある日町に出たとき、線香を売っていた人が出家した僧侶であることが分かりました。おばあさんはうれしくなって思いました:出家した僧侶のものを買えるのも上等な縁ね。おばあさんは僧侶の前にいって御礼をして「お香を2斤(訳者注:1斤は500g)ください。」と言いました。僧侶は袋から適当に線香をつかみ出し、「2斤です」といいました。おばあさんは線香を受け取りましたが、あまり信用できず、家に持って帰って量ってみてからお金を払おうとしました。すると僧侶は「あなたのお好きなように」と言いました。おばあさんは家に帰り線香を量ってみました。線香はちょうど3斤ありました。おばあさんは思案しました:彼が2斤といったから私も2斤のお金を払えばいい、どうせ彼は線香がいくらあるか分かるはずないのだから。おばあさんは家から出てきて僧侶に「あなたはいい判断力の持ち主です、ちょうど2斤でしたよ。」と言いました。僧侶は「だから私が2斤といったのにあなたが信用しないで量ったりするから、面倒なことを・・・。」と言い残し、おばあさんから2斤分のお金をもらうと、東から西へと行ってしまいました。

 そこから遠くない場所に酒処がありました。僧侶はここに辿りつき一休みすることにしました。一壷のお酒と豚足を1本頼み、一人酒を飲んでいました。さて線香を買ったおばあさんはというと、一時的に得をしたことに大喜びし、仏像の前にお香を立てました。近所のお家を訪ねていく途中、ちょうどこの酒処の前を通りかかったら、なんとあの出家僧侶が一人で肉を食べ酒を飲んでいるのではありませんか。おばあさんはふと自分が買った線香が妥当ではなかったような気がして、このような僧侶の線香で仏様を敬ってもいいだろうかと心の中に疑惑が生じました。忍ぶことができず、前に出て礼をしながら言いました。「出家僧侶は戒律を守って、一心に仏さまに向け修行するべきです。あなたは出家した僧侶なのになぜ肉を食べ酒を飲むのですか。偽者ではないでしょうか。」僧侶はこの言葉を聴いても怒るどころか、笑いながら言いました。「どうぞおかけください、あなたはなぜ怒っているのか私は良く分かります。私の言うことを良く聞いて、悟った者は受益します。よく聞いてください:あなたは口だけを修め心を修めず、私の3斤のお香を2斤といいました。私は心を修め口は修めないので肉も食べるし、酒も飲みます。」ここまで聞いたおばあさんは顔が真っ赤になり、とても恥ずかしくて自分を責めました。しばらく考え込んだのち、指導を求めようと顔を上げると、もう誰もいませんでした。そこでやっと神仏が降臨したとわかり、ひざまずいて拝みました。それからおばあさんは心が目覚め、常に自分の心を正しく位置づけ、真面目に修行し、数年後には正果を得ることができました。

 今日、正法の情勢が勢いよく進んでいます。一切の邪悪な旧勢力、黒い手、法を乱す卑しい鬼を「一日千里」の勢いで一掃しながら進んでいます。師父がわれわれに残してくださった、正法の道でするべき3つのことをする時間は日々減少していきます。過ぎ去った時間は2度と戻ってはきません。われわれの執着を持つ心は正法の中で毎日浄化されつつあるでしょうか。帰正されつつあるでしょうか。正法の中で日々向上しているでしょうか。正法の中で毎日着実に師父の教えのとおり実行しているでしょうか。 

 ところが、当地区の少数のまだ出てきてない同修は、法の上で法を認識するのではなく、法の中で自分自身が精進できない原因を探すのではなく、常人のいわゆる「功は求めないが、求めたとしても間違いではない」という考え方で自分を束縛しています。正法の中で個人ができることさえ積極的にしないで、全体的に協力すればできることにも積極的に参加せず、警察に逮捕されない、刑務所に入らない、「三書」(悔改書、法輪大法の修煉をやめるなどといった誓約書のこと)を書かなければいいと考え、自分が正法時期の大法弟子であることも自分が担うべき責任さえも根本的に忘れています。これだけで合格した大法弟子といえるのでしょうか。偉大なる師父はあなたを家に連れて行くことができるのでしょうか。

 師を助けて法を正し、衆生を済度し、邪悪を全滅し、円満成就に向かう。同修たちよ、われわれにできることはなるべく行いましょう。師を助けて法を正すのに形式にとらわれないで、事の大小にかかわらず、年齢の大小にかかわらず、できることがあればするべきです。そこに乗り越えない障害はないと思います。本当に第一歩を踏み出したとき、あなたの心は平然で何も怖くないことに気づくはずです。すべての執着を下ろしたとき、あなたはこんなに気楽なものだったのかとあらためて感じるはずです。

 古人曰く:父母有事,子女代其労;師父有事,徒弟代其行(父母に何かあればその子供が責任を持ち、師匠のことはその弟子がするという意味)。大法弟子、特に正法時期の大法弟子は常人を超越した修煉人であり、師父がわれわれに授けてくださったのは比べ物もないほどすばらしいもので、師の恩はいつまでたっても報いることのできない大きいものです。今日、師父が濡れ衣を着せられ、大法が困難に直面しているとき、われわれはどうして心から正法のために出てくることができないのでしょうか。われわれの先史の大願を果たすために、すべての執着を捨て去り、心の軌道を帰正し、正念を固め、師を助けて法を正しましょう。

 正心 (心を正す)

 心正意到修行高 (心が正しくその気があれば高い次元まで修行することができ、)

 心清意浄知奥妙 (心も気持ちも清めれば妙理がわかり、)

 執著有漏心自乱 (執着と隙があれば心は乱れ、)

 心无執著登九霄 (執着心がなければ九霄へ登ることができる。)(九霄:空の果てという意味)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/4/23/72954.html