物事を量る基準を元に戻す
文/大陸大法学習者
【明慧ネット2004年5月15日】私は96年に大法に出会った。重なる修煉によって「情けを捨てる」ことこそが問題の本質であり、執着は情の表に現れたものに過ぎないことが分かった。自分が精神的に昇華したことの素晴らしさを感じ取ることが出来、自分が“法に溶け込んだ”と思っていた。
1999年7月、江沢民集団が法輪功に対して迫害し始めてから、私は新聞で法輪功を中傷する記事を読み、とても悲しく、やりきれない気持ちと悪人に対する嫌悪感で、憤りを押さえられなくなって激しく泣き出した。それからの月日は、常人が大法に対する偏見と嘲り、そして私が真相を伝えているときに彼達の軽蔑な眼差しなどの全てが私にとって、胸をえぐられるような思いだった。知らず知らずに、私は世の人々に対して恨み言を言うようになり、自分の不純な一面を曝きだした。
弾圧が激しさを増すにつれて、私も日に日に意志消沈になっていった。李先生の“円満に向かって進む(走向円満)”などの経文発表の後、私も反省して立ち直ったが、自分自身を完全に正したわけではなかった。2001年8月、ある古い学習者を訪るために、李氏と言う学習者が二度私を誘った。私は他の学習者に気にかけることと優しい心を持たなければならないことにふと気づいた。私の心にある引っかかりがそのときに解けた。
その日、私は正念を発することを知った。自宅に戻ってから、李先生が発表された最近の幾つかの経文を勉強し、正念を発するようになった。ある日、私は片手を立てた瞬間、心の奥底から「正念を発することは李先生が私達学習者に対する無限の信頼であり、李先生が学習者達に与えた責務である」と思いが生じ認識した。その時私の心と体にはある種の神聖且つ荘厳な力で満ち溢れていた。李先生の私達に対する信頼は正に慈悲なる力であり、最も神聖な贈り物であると思った。私達は勇猛に精進しない訳にはいかないのだ。
私達は宇宙の護衛者になるのだ。佛法神通とは佛法を護衛するために現れ、繰り広げられるものではないか? 佛法神通とは佛法が生命体に授かった力ではないか? この一切は正に無私無我の覚者でしか現せない威厳さではないか? その時、李先生が“私”についての説法は次から次へと私の頭に浮かび上がった。法を護衛するために命を捨てた沢山の学習者の壮烈な行いも私の頭に浮かんで来た。私は今までにあった良くない言動の全てが“私”の素因が残っていたことがその時点で全て分かった。
私の心に“無私が正念を生む”の声が響いた。私の目に熱い涙が溢れた。私は正念を発することについてより深い認識を持った。“私”とは旧宇宙が歪んだ根本的な原因であること、“私”は生命の容量を縮ませ、高いレベルのそれぞれの広い空間と融合できないようにした一因であること、“無私”こそが円融でき、“無私”こそが高い次元へ到達できることを新たに認識した。
李先生が法を正す内包の一つは宇宙、天体、更なる天体にいる生命体の物事を量る基準を元に戻すことである。旧宇宙および天体に起きた変異は、物事を量る基準が偏ったことから起因したもので、生命や物質の腐敗は表の現れにすぎない。私達が執着心、情、私心を捨てる過程とは、要するに自分達の物事を量る基準を元に戻す過程である。量る基準によってそれなりの心性と言動を表し、自らが選んだ量る基準によってそれに相応する生命体になるのだ。旧勢力は旧来の量る基準を選んで改めずにいる。彼達は旧来の法理と共に解体する定めになるのだ。衆生は“法輪大法は素晴らしい”という一念があれば、衆生は実質上新しい宇宙の量る基準に選ばれ守られるのだ。私達が物事を量る基準を正していれば、私達の言動も自然に“良い人”の言動になるのだ。しかし、本質と内心これに留まらず、私達が他に沢山の空間に存在する自らの全てもそれぞれ正されるのだ。それによって、全ての空間世界や天体範囲も正されてゆくのだ。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/5/15/74709.html
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