日本明慧


二言三言:“内に向けて探す”とは“互いに監督する”ことではない

 【明慧ネット2004年5月20日】長い間、同修の間では一つの考え方が存在している。それは“成功と失敗で英雄を議論する”ことである。同修が捕まえられ、迫害されたと聞き、自ずと同修の欠点を探し出し、話す言葉は非難と推測で満ちていて、内に向けて探さず、同時に時間を切り詰めて、さまざまな方法を考え出して、遭難中の同修を助け、救出することをしない。これは非常に良くない。またもや大量の時間を無駄にした。

 この方面についての師父の法と同修が以前に書いた文章はとても多い。この中の道理についてみなはっきりしている。しかしこのようなことはまだずっと発生していて、またとても普遍的である。だからここで私は、他人の欠点を注視することが好きな同修に再度注意を促す。師父は私達に、内に向けて探すことを教えくれた。私達が互いに監督するよう教えたわけではない。師父が私達に教えてくれたのはいかなる情況でも自分を修めることであり、決して他人を修めることではなく、他人の執着に執着することではない。

 迫害される同修は自分の心性の方面に問題があり、教訓を受け入れるのも当然である。しかし私達は同修が迫害される情況に直面して、同じくいかに自分を修煉者として自覚するか、自分がいかに修煉するか、自分がいかにこの事の中で、迫害に反対するために代価を払うか、自分がいかに、邪悪が自分の心性の隙に乗じることを根絶するかの問題が存在する。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/5/20/75102.html