日本明慧


甘粛省天水市大法弟子の劉文瑜氏は迫害され死亡

2004年4月29日 

【明慧ネット2004年4月29日】劉文瑜氏、53歳、女性、甘粛省天水市鉄道病院退職職員である。98年10月に法輪功を修練し始め、1999年12月末に上京へ陳情に行ったため、当地の公安に半月間拘留され、4千元の罰金を取られた。そして2000年12月に一人で天安門に行って、人々に"法輪大法好"を伝えていたところ警察に捕まった。その後地元の警察に戻されてから非合法に蘭州安寧区労働教養所に入れられ二年間労働教養された。劉文瑜氏は監獄の中で邪悪に妥協せず、絶食で抗議したため、食を入れられ、胃は大出血になった。さらに彼女は各種の酷刑で苦しめられた。家に戻ってからも悪徒が頻繁に邪魔に来て彼女を苦しめたので、ついに2004年2月に他界した。 


附:劉文瑜氏が書いていた迫害を暴きだす文章: 

私は今年52歳になる甘粛省天水市北道区鉄道病院の職員で、既に退職している。 

法を得る前、私は多くの病気を罹っていました。例えば、腰の椎間板ヘルニア、頚椎骨質増殖、胃病、脈率加速、軽度中風等です。さらにもう一種類頑固な病気は子宮頸糜爛(産婦人科病)でした。これは不幸にも治療中に不潔な医療器具で性病を移されたもので、いくら治療しても根治できなかった。この当時私の心身は口では言えない苦痛の中にあった。私の性格は頑固で、知らないうちに他人を傷付けてしまったが、自分は他人より良いと思っていた。

幸いにも、1998年10月に私は大法を得た。私は繰り返して《転法輪》を読んで、毎日近くの煉功場に行って集団煉功に参加していた。私は知らないうちに体にあった各種の病気が全部自然に治った。それまでなかなか払うことができない悩みさえなくなった。そして私は本当に病気のない感覚を味わった。悩みが無いことは人の言葉で表現できないものです。その後、法を学び、功を練るにしたがって、"真、善、忍"に対して新しい認識を持つようになった。そして何かあったら、すぐに自分の不足を探し、それを直して、他人を寛容することができるようになった。大法は私を変えて、私の変異していた観念と思想を規正していった。ところが、1999年7月20日,江沢民政治ヤクザ集団は大法、大法弟子に対する邪悪弾圧を始めた。江沢民は個人の大法に対する嫉妬に基づいて、自分を国家と憲法の上に置いて、大法に対する誹謗中傷を始めた。何万人もの法輪功学習者を勝手に捕まえて非合法に監禁し、労働教養や懲役刑等の判決を下した。この突然の残酷な弾圧に直面して、私はなかなか理解できなかった。陳情は国家が公民に与えた基本的な権利だと認識できた。我々が修練しているのは正法で、"真、善、忍"という原則に従っている。我々は名誉も利益も求めない、ただ一人のいい人になりたいだけだが、これのどこが間違っているのか?私は冷静に考えたあと、自分の体の変化という事実で法を実証すべきだと決めた。 

初めて北京へ陳情に行ったのは1999年12月末だった。私は何人かの同修と一緒に北京に行って、同時に捕まえられた。天水駐北京の事務所の地下旅行社に拘留され、その後、天水北道公安支局の?継堂より北道行政拘留所まで護送され、強制的に4000元の罰金を取られた。 

二回目は2000年12月だった。私は一人で北京に着くと、直接に天安門広場に向かって、人々に "法輪大法好"、"法輪大法は正法だ"と伝えた。今回私は北京海淀区拘禁所に9日間拘禁されたが、さらに職場の人が迎えにきて、地元に戻されてから天水北道区行政拘留所に30日間拘禁された。 

2001年1月20日に私は洗脳班(橋南戒毒所)に連行されたが、私は絶食で抗議して、旧暦12月28日に釈放された。2001年3月17日(旧暦正月2日)私が家に居ると突然警察がやって来て私を連行した。そして行政拘留所に送られて、2003年3月19日まで二年間に亘り非合法な労働教養をされた。 

"真、善、忍"を修練することは間違っていなし、国法にも違反していないのだ、ここはいい人が居るところではない。労働教養所に入った初めの日、私は絶食で非法な迫害に抗議した。すると甘?省第二労働教養所女子大隊二中隊の警察は各種野蛮な手段を用いて我々に食を入れた。                                                    彼等は労働教養所内の犯人に指示して私に食を入れた。初めは十数名の犯人が私を庭の外側にある部屋に運んで、手足を全部椅子に縛り付けた。それから衛生所長は自ら管を持って、それを私の鼻から入れようとしたが、私がずっと協力しなかったので、何回繰り返しても彼は目的を達しなかった。ある日、警察は私を衛生所の幅が1メートル、長さは2メートルの鉄ベッドに縛った。そして彼等は私をベッドと一緒に中隊の活動室に運んだ。それから、犯人に指示して私の足の関節や腹の上に座らせると、一人の高という名字の警察が前回より太い管を使って、それを鼻から入れた。そしてその管を鼻と喉の間を何度も出し入れした。私の鼻や口腔は血だらけになり、鮮血がしばらく流れた。その後も、警察は自ら監視して、靴ブラシで私の口を抉じ開けては何度も残酷に管を入れた。私の歯茎からは絶えず鮮血が流れ、体はすごく弱り、痩せてきた。 

2001年7月、中隊は大法弟子の食事量を突然減らしたので、平日の三分の一の量になった。しかし毎日の重労働は減る事も無く大法弟子にやらせた。私は絶食でこの人権を無視した違反行為に抗議し、正常な食事量に回復するよう要求したが、中隊長がなかなか納得しないので、私は続けて絶食で抗議した。ある日、私は中隊長事務室に呼ばれた。そこには三人の警察官(女性二人と男性一人)がいて私を尋問すると拷問をし始めた。彼等は私に北京の大法弟子及び一台のコンピューターのことを聞いてきた。私が知らないと言うと、男性警察は木の椅子の足を持って、私の体を抑えると、武紅霞という警察が私の顔を殴った。私が意識を失い掛けると、彼等は私の顔に水を掛けた。こうして半日以上経っても、結局彼等は何の結果も得なかった。そこで彼等は前もって用意した資料の上にサインをさせようとしたが、私は断った。監禁室に戻されると、私は彼等の暴行を止めさせるためには、正念で止めさせる意外にないと悟った。その後彼等は類似のことを起こさなかった。 

警察は何回も公開の場で大法と師父を中傷したことがあったが、私はその度に

:"法輪大法好"、"私の師父の名誉を返せ"と叫んだので、彼等に監禁され、手枷をかけられたり、長時間立たされたりした。連日寝させず、20日間あまり立ちっ放しにされたので、足は酷く腫れ上がり、曲げられなかった。 

ある日、ミーティングした時、またある人が大法と師父を中傷したので、私は“師父の名誉を返せ”と叫んだ。すると警察は "大背吊"という酷刑を使って、私の両手を体の後ろに回し手枷で1.8メートルぐらいの高さのところに固定したので、両足は地面から離れた。私の体から汗が流れ落ち、肩と手足は痛くてたまらなかった。私は心から師父に:"どんなことがあっても、決して邪悪に妥協しない"と、思ったとたんに、ある人が私を呼んだので、私は降ろされた。その日からまた手枷を掛けられなくなった。これは師父の保護だと私は分っているので、涙が出てきて、すぐに苦しみの感じがなくなった。本当に生死を忘れ、師父の慈悲に保護された下で、邪悪は迫害の言い訳を探し出せなくなった。そして私は奇跡的に生き抜いたのだ。 

今は法を正す最後の時期になった。自分の背負った歴史の責任を重く感じているので、私は師父が要求した三つのことをちゃんとやらなければならない。そして地元の邪悪を暴き出し、法を実証しながら衆生と世人を済度し、法を正す道の一歩一歩を正しく歩こうと思う。 


甘粛省天水大法弟子 劉文瑜

2003年12月27日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/4/29/73480.html