日本明慧


—共に精進し、更に冷静になり、はっきりし、成熟するように

 文/善果

 【明慧ネット2004年6月4日】お祝いの日、特に新年および師父の誕生日になると、世界各地の大法弟子たちが師父への想いおよび挨拶を、明慧ネットを通して伝える。法会になるたびに、たくさんの大法弟子たちがメッセージを師父に渡して挨拶する。これらの挨拶の中に、たくさんの意味が含まれている。主にみんなの師父への想いおよび尊敬、そして大法への信念を込めている。これらの挨拶は、邪悪にとっては、特に中国のあの醜くて邪悪な首領にとっては、言うまでもなくすべては一つ一つの重量の爆弾になる。

 しかし、軽視することが許されないのは、たとえ最も神聖なことであっても、その中には修煉の要素も含まれている。もし厳格に自分を要求することに注意を払わなかったら、顕示の心、競い合う心、ひたすらに何かを成そうとする心、そして人情への執着などの常人の心にとらわれ、そのために神聖な挨拶が個人化してしまい、自分の執着を放縦し、そして修煉に影響を及ぼすことになる。

 例えば中国大陸のある地区で自発的に組織された協調人が、海外の大法弟子たちの記念写真、および録画がサイトで公示されたのを見て、地元の学習者たちを召集して、撮影し、録画などをした。その他の学習者たちも感情が先頭に立ったため、法をもって裁量することを忘れて、結局邪悪にその隙間を乗じられてしまい、たくさんの人が捕まえられ、資料の作成室などが破壊されて、地元の学習者たちの修煉および真相を伝えることにも不必要な妨害をもたらしてしまい、損失も悲惨で重大なものであった。海外にも競い合い、そして個人を顕示するようなことがある。

 ここ数日に同修たちが明慧ネットで発表した『供述ゼロの意義』などの文章を見て、大変に同感を覚えた。師父の正法が今日に至って、私たちは自分たちの基本的な修煉をより重視しなくてはならなくなった。このような具体的な問題に直面している学習者たちは、すぐにも今ある局限を超えねばならないことを除いて、私たち他の人でも、すべての人が自分をもっと見つめなおすべきではないか。自分には修煉の基礎がしっかりしていない問題はないだろうか、長期間にわたって人心をもって問題を見ていないか、程度は違うものの人心をもって迫害および矛盾を見ていないか、長期にわたって法を学ぶときに心を静めることができず、あるいは人の観念で法を理論、知識として学んではいないか、などなど。過去の個人的な修煉時期でよくできていない部分を補うときがきたようだ。

 ここ数年、今回の邪悪な迫害のために、私たちはたくさんのことを経験し、引き受けた(師父が私たちのために引き受けたものとは比べ物にならないが)。皆より成熟するようになって、たくさんの代価を払った(私たちが圓満したあとに得るものとは比べ物にならないほど微小なものにすぎないが)。しかし私たちは必ずはっきりした頭脳および修煉者の心構えを保持するように注意しなければならない。どんなにたくさんのことを成したところで心性の修煉に取って代わることはできない。その反対に、心性が法の要求される水準に達しないと、往々にしてやるべきことがある程度に達するとそれ以上動けなくなる、ひいては心性の問題のために(まさに前述したように大陸学習者たちが安全の条件を顧みず、全体で録画した例のように)大法を実証することおよび三つのやるべきことに損失をもたらすことになる。

 師父に挨拶する件を例にあげると、国内および国外の大法弟子たちが期せずして一致するように師父に対する挨拶および“世界法輪大法デー”への祝辞を出すことについて、それ自体は大法を実証すること、邪悪を廃除することに疑いようがない。しかし私たちがやるときには、心構えおよび目的が純浄か否かは、直接にこの事件の最終的で客観的な結果に影響を及ぼすことになる。心構えが純正なときに結果は正であり、心構えが大法から離脱した場合は、良いことでも悪いことになり、マイナスな効果をつくることになる。

 実に師父は私たちの常人の形式の挨拶をあまり重視しておらず、もし私たちが修煉の中で常に止まらず精進し、そしてしっかりと師父の託した三つのことをうまくやることができたら、それは何よりも師父を喜ばせ安心させることになろう、それは私たちが最大の善念および正念をもって大法を実証する自分の道を歩んでいるからである。

 明慧ネットでみんなの挨拶を大量に掲載するのは、大法の一億の同修たちの心が一つになることを励み、私たちが大法を実証し、衆生を済度し、そして邪悪を廃除して共に精進するためであり、人心および人情の重い学習者のために個人の執着を表現するための環境を提供したものではない。私たちがたとえ最も神聖なことをしているときでも、みなはっきりと自分が何をしているのかを知り、修煉者のあるべき冷静ではっきりとした理性的な心構えをもって自己を修煉するとき、私たちは誇りを持って師父へ告げることができよう:師父、私たちは本当にあなたが要求した通りに、法の中で成熟してきましたと。


 (中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/4/76302.html