師父へのエジプトとモーリシャスからの特別なご挨拶(下)
──全世界にあまねく伝わる大法
文/麗莎(アメリカ・ウィスコンシン)
【明慧ネット2004年5月27日】
(前文に続き)
モーリシャス
モーリシャスはマダガスカル島海岸に位置している小さな島で、一つの悲惨な奴隷の歴史を持っています。この国の民族はインド人を含め、中国人、アフリカ人、イギリス人、フランスの末裔からなっています。人々は主としてフランス語のクレオール(編集部注:異なる言語が接触することで生まれた新しい言語をその子孫が整理・体系化していった言語)を使っています。私がモーリシャスに着く前に、同修(編集部注:法輪功を共に学ぶ仲間)から連絡がありました。私たちに功を教えてもらいたい、『轉法輪』を購入したいという人がいる、とのことでした。私はその人に「すぐにそちらに到着いたします」とお教えしました。
モーリシャスに到着した時には、すでに日も落ち、泊まるところが見付かりませんでした。タクシーの運転手さんは、島の他の地域に行かないかと提案しつつ、そこがすべての観光客が最も好んでいる場所だと告げたのです。私はとても疲れていて、「聞いている限りでは悪くないと思います」と答えました。翌日、私は真相資料を配りはじめながら、同時に周囲の環境を調べました。一番最初に真相資料を受け取った人の中には観光客向けのブティックで働いている人がいました。彼は資料を見ると、一緒に食事をしないかと私を彼の家に誘い、家族と会わせてくれました。彼のお父さんは資料とVCD(編集部注:CDに映像を記録した簡易版DVDのようなメディア)を見て驚愕し、私に座りなさいと言いました。彼は私に「私はこれまでずっと佛家の法門を学びたいと思っていました。真の師父がおわすならば、法を乱す勇気のある者はいません。功法もあるというなら、煉功すべきですね……このような機会がこの家に訪れるとは誰が思ったことでしょう? これはまさに奇跡以外の何ものでもありません!」と感激しながら語っていたのです。
同日、彼は私に七年間患っていた皮膚病が治りはじめていることを話してくれました。その後、私たちは本を買いたいと連絡があった方に連絡を取り、時間と場所を決め、一緒に煉功する約束をしました。その日は雨が降りました。私たちはその店で煉功をしたのです。大勢の人が資料を受け取り、私たちの煉功の様子を見ていました。私たちはそこで何日間か、数百枚の資料を配っていました。
私たちは大法の多くの面について説明し、また煉功と法を得る重要性に関しても説明したのです。モーリシャスに初の煉功場ができました。その後、ある多忙な日曜日の朝、私たちは海辺で煉功をしました。彼らは写真まで撮り、非常に誇りに思っていました。
それから、モーリシャス唯一のテレビ局から人が訪れ、中国警察の法輪功に対する残虐な体刑について手短に集材をし、現地のテレビで放送をしました。私たちも現地の新聞社レ・モーリシャンと、レ・エクスプレス の2社と連絡を取りました(私がそこを離れて一週間後、レ・モーリシャンが彼らの取材文を発表しました)。
私たちがそこを離れる時、あのお父さんは私を見てこう話されました。「師父にお伝え下さい、私たちは師父が私たちを救い済度に来てくださったことをとても嬉しく思っています……師父に会われましたらこのことをよろしくお伝え下さい」と。
アルゼンチン
ブエノスアイレスは、南米で法会がはじめて開かれた地方です。世界各地の学習者がこの法会に参加しました。法会の期間中、公園では多くの活動とパレードが行われました。私たちは数千枚以上の真相資料を配布し、また功法を実演しました。私たちは中国領事館の前に集まり、私と、ドイツからやって来た一名の学習者が中に入り、真相の説明をおこないました。私たちは領事と会見の約束をし、面会を果たしたのです。私たちは彼女に私たちの友人の李祥春さんが中国に拘禁されていることを伝えると同時に、法輪功に対する中国の状況も説明しました。私たちは彼女に法輪功の修練と法輪功の素晴らしさについて話しました。彼女は真剣に受け入れ、とても関心を持っているようでした。しかも、彼女は私たちに外交部の電話番号を教え、電話するよう言いました。最後に、彼女は私たちのすべての資料を受け入れ、私たちと握手を交わし、私たちの好運を祈ります、と励ましてくれたのです。
その時の法会は特別なものでした。南米の学習者たちは心を開き、互いに大法と正法に関する素晴らしい交流をおこない、とても良い経験と悟りを得ることができたのです。他の国からやって来た大勢の学習者たちも、私たちに大変、深い印象を持ったようです。とても感動的なものでした。私は自分がこのように歴史上、記録に残るような大きなことの小さな一部分となったことを、とても嬉しく思っています。
大勢の同修は近隣の他の都市へ行きました。例えばコルドバなどです。私はペルーへと旅立ちました。
ペルー
ペルーは私の旅の最後の地です。私は飛行機でクスコへと飛び、アンデス山脈の中心に位置する小さな都市へとやって来たのです。私の友達の一人は、常に精神的探求のためこの地を訪れていて、ここはどんなに良いところかといったことについて教えてくれていたのです。私はかえってここは洪法にとても良い場所だと思いました。クスコは、スペイン人からカトリック教の影響を強く受けている地でした。しかもインカ文明の影響も強く受けています。今の私の次元から見ますと、この地方は大法の訪れをこれ以上待ちきれずにいるように感じられたのです。多くの観光客がここにやって来ては祈祷師を求め、これを崇拝し、エネルギーを得ようとしていたのです。毎日、私は数百の真相資料を配布し、都市周辺の小さなショッピングセンターの広場で煉功をしました。そこには芝生を植えている公園などありませんでした。ですから、それはとてもチャレンジングなことだったのです。警官への真相説明を通じて、私はその場所でも唯一、芝生のある所で煉功できる許可をいただきました。私が煉功している時、村の一人の主婦が連続して3日間、手伝ってくれました。真相資料を配布し、スペイン語で通行人にずっと法輪功に関して説明をしてくれたのです。彼女は「私は、知れば知るほどこの功法が並のものではない、と感じました。私はできるだけあなたをお手伝いいたします」と言ってくださったのです。
私はマチュピチュに登り、大法に興味を持つ大勢の人に出会いました。私が座禅を組んでいる時、多くの人が真相資料を受け取りました。そこはとても美しい所でした。
多くの人が「いつクスコにも煉功場ができ、大法の本が買えるようになるか」を知りたがっていました。数百、数千の真相資料を見て、人々は心から大法を受け入れてくれたのです。静かに座禅を組んでいる時、私は山々の周囲にかかる巨大な虹、インカの神が幸せそうに微笑んでいるのを見ることが出来ました。なぜならば、一つの正法がとうとうクスコの地を訪れたからです。
すべての旅行の中では、少なからぬ妨害もありました。コピー機や真相資料のコピーは決していつも順調とはいきませんでした。多くの地方は貧しく、コンピューターや、ビデオカセットや、ビデオカセットレコーダなどの機械がありませんでした。電源の設定が異なるため、私は音楽のない情況で煉功しなければなりませんでした。私はまた、いつも普通の観光客にならないようにと自分に言い聞かせていました。現れてきたある観念をもって、感覚に任せ、何かを過度に評価しないようにも心掛けました。これは私にとって、とても重要なことでした。師父が私たちに切り開いてくださった最も素晴らしい道を信じています。
飛行機の中、旅館、タクシーの中、レストラン、どこへ行こうとも、例えばドバイ、ナイロビ、そしてヨハネスブルクなどでは、たった数時間か一日だけの宿泊でしたが、私はずっと真相資料を配り続けていました。師父は以前、どのような地方や国家であっても、もし大法学習者、そして大法がなければ、将来面倒なことがあります、とおっしゃいました。ですから、こうした地区も、とても重要なのです。
すべての旅行を終えるのに、約二ヶ月近くを要しました。一番信じ難かったことは、私が真相資料を持って行った地で、威徳を築くことを待っていた、あれらの人々のことでした。彼らは、次から次へと私の前にやって来てはこの重要な機会を逃さぬよう資料を受け取り、引き続き前へと歩みだしたのです。彼らは自らの母国に素晴らしい未来をもたらしたわけです。
最後に私は、私を助け今回のこの旅を成功に導いてくれた同修に、感謝の意を申し上げます。彼らの助けがあったからこそ、私は自分の責任を意識することができ、励まされ、決断することが出来たのです。以上が、私の修煉で体得したことです。不適切なところなどございましたら、是非、慈悲をもってご指摘いただきたくお願いする次第です。
ありがとうございました!
(2004年米中地区法会発表原稿)
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/5/27/75745.html)
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