日本明慧


心が動じない
——共に精進し、より冷静・理性・成熟となりましょう

 文/一言

 【明慧ネット2004年6月6日】“どんな厳しい環境下でも、皆さんは心を落ち着かせるべきです。如何なる心も動じなければすべての変動を制することが出来ます。”《米国中部における説法》これは数多くの大法弟子が心に銘じた言葉であり、1999年7.20がやってくる前に師父が説いてくださった法です。過去の五年間、邪悪な迫害の中、絶対に邪悪に妥協してはならず、環境がどんな厳しくても固く大法を修め、最後まで修めていかなければならないことはよく分かっています。この数年間、数多くの大法弟子はこの次元において大法への確固とした信念で歩んで来ました。

 大法の中で修煉することは、毎日修煉していると言えない事を最近悟りました。毎日大量の大法の仕事をやっても、自分が毎日修煉を堅持しているとは言えません。堅持して大法を修めていくという試練の前に心が動じないこと以外に、師父が説かれた上述の法も我々の日常修煉を指導しています。

 例えば、数多くの学習者は既に経験したことがありますが、他人があるものに執着することを見たとき、あるいは他人の良くない言動を見たときに、非常に敏感になり、直ちに心に不満が生じ、事後に振り返っても憤怒を感じ、心がなかなか穏やかになれません。実にこれはまさに常人の心が生じたときです。なぜこんな状態になるかと言うと、このとき自分の心は他人の過失に強く動かされてしまい、自分の心が動じることが全く見えないのに、なぜ心が動じるかを考えるかは言うまでもありません。そのときの考えはこの修煉の機会を大事にし、自分の執着とその執着がもたらした良くない物質を取り除き、心性を高めることでなく、常人の観念や筋道に沿って、この試練を、何かをするときに生じた面倒なものとして扱い、あるいは自分の計画を実現する支障としました。本当に他人に対する善は一体何であるか、如何にして他人に対する善を成し遂げるかをも忘れてしまいました。

 冷静に考えると、他人が表した執着は、我々が自分を修めない口実になるべきではなく、逆に、修煉者が遇ったすべてのことは偶然ではなく、我々の修煉と高まりの要素が中にあると、師父は教えてくださいました。実に、旧勢力が我々の隙に乗ずることであれ、我々同修の間に各自の執着によって人為的にもたらされた面倒であれ、皆、我々の心性を高める機会とするべきです。

 修煉者として、心が動じるべきでないところがたくさんあります。例えば、大法の仕事に自分の計画が突然めちゃくちゃにされたとき、予想以上の圧力を感じたとき、他人に批判・非難され、あるいは罵られたとき、誤って他人に責められた時、自分の誤りがみんなの前で現れたとき、自分のことが他人に理解・支持されない時、また、常人の名、利、情からの誘惑がやってきたとき、同修、家族、友人が自分を褒め、または責めるとき、真相を伝えるときに他人の反感を招き、自分に不遜なことを言ったときなどなど。これらは皆、我々修煉と向上の機会です。矛盾の前にしっかり自分を修め、天地を覆い隠すような邪悪の圧力を問わず、日常生活で偶然に見える誘惑と衝撃を問わず、事の大小にかかわりなく、心が動じないように修めるべきです。これは修煉の基本的な修業というかどうか知りませんが、いずれにせよ、これらは修煉者の基本的な風貌を表すことが出来ます。

 私は悟ったのですが、修煉が終わるまでに人心がまだあるため、心が動じるときがたくさんあります。大体の趨勢は心がますます平静・穏やか・安らぎます。これこそ正確な状態です。しかも法を正す修煉の中で、心が動じた途端すぐに意識して、意識したら無条件で内面を探し、見つけたら直ちに正念で取り除き、このように修煉していく限り、修めるのが実に非常に速いのです。古今を通じて恐らくこのような容易な修煉方法はないでしょう。師父が何でも我々にくださり、我々のためにやれることを全部やってくださいました。残りはほかでもなく、時々刻々修煉を念頭に置き、確固として修めていく精進の心(正念)です。

 我々の心性が絶えず高まって行き、師父の期待する境界まで修めて行く時こそ、根本的に旧勢力の按配を打ち破ることになります。師父の要求された三つの事から言うと、この三つのことをやる過程で、時々刻々心性上の修煉をしっかりやってこそ、はじめてこの三つのことをしっかりと成し遂げられます。さもなければ、ある程度やったら、お決まりの勤めになりかねず、あるいは仕事をする心、安逸心が出て来て、力が足りなくなり、限界に来ているような感じになり、酷い場合、名、利、情に惑わされて法を正す要求に合わない言動を為してしまい、これらは大法弟子が重大な歴史使命を成し遂げることを阻止することになります。ところが、我々が本当に堅実とした修煉基礎を持つならば、如何なる困難な環境においても、如何なる矛盾の前においても、我々は必ず冷静的、理性的であり、大法に対して如何なる疑惑と動揺をも生じえません。なぜなら我々は時々刻々、法の中で修めており、我々は大法と溶け合っているからです。従って、法を学び、心を修めることを通して、修煉上の突破を実現してこそ、はじめて根本的にこの三つのことをやる過程に現れたあらゆる妨害と支障を突破することが出来ます。

 当然、大法弟子の心が動じないのは修煉によって達成したものであり、人為的に扮したものではなく、表では心が動じないように見えるが実は心を放下しないことではなく、そして常人の思うように、心が動じないことは木のように冷淡で、無感覚ではないのです。本当の心が動じないことは包容であり、寛容と理性です。修煉者はこのような状態に達したら、根本的に他人に対して責任を取り、善を以って他人に対処し、本当の冷静、理性と智慧を持つようになるのです。なぜならこれは修煉者の本質的、自然な現れであり、神の本性の現れであるからです。


 (中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/6/76428.html