日本明慧

どんなに難しくとも、必ず大法を一番に置くこと

 文/中国大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年6月2日】

 大法の修煉は直接人の心を指している。私たちが絶えず向上することができるのは、私たちが本当に人心をすてることができるからである。しかし表面にある物質を捨てることは私たちが本当に人心を捨てることができることを意味していないし、それに私たちがもう物質に対してなんの執着をも持っていないことも意味しない。しかしえてしてこれらの表面にある物質を捨てることで自分あるいは他人に一つの仮装を与えることがしばしばおこる、自分あるいは他人はすでに物質に対する執着心はもうないと考えたがる。

 いにしえから修煉はみな副元神が功を得る、それは副元神が修煉しているからである。本当に人心を捨て去り、彼が得たのは修煉を終えてからの円満である。しかし主元神は表面ではあたかも修煉しているかのようではあるが、実際本当にその人心を捨て去ることができず、彼が失ったのは彼の青春であり、彼の常人の時の光陰である。彼が得るのはせいぜい常人の果報、偉い官僚になるか、金持ちになるだけである。

 私たちは今常人社会で修煉をしている、それに正法の修煉をしている。私たちが正しく歩んだ道は未来のために残ることになる。中国大陸では、邪悪の迫害のために、たくさんの大法弟子たちが監禁され、労働教養され、刑を下され、そして故郷を離れ行くところも無い人もいる。常人の角度から見ると、確かに常人のすべてを失ったと言えよう。自分も今故郷を離れ、行き先もない状況に置かれているから、正常の学習、仕事、そして生活の環境を失い、生活では大変厳しい環境に直面している。それは直接大法を実証することに影響を及ぼしている。しかし私は今になって、自分が物質を追及する心を本当に失ったわけではなく、それがこの時期に充分に暴露されてしまったと気づいた。生活が困難な状況に直面したときに、まず最初に考えたのは自分の生活であり、ひいては修煉、大法を実証することなどを後にまわそうとの考えも出てきた、仕事と生活を一番においてしまった。

 私はここで必ずどのようにすべきかと言っているのではなく、ただこの種の状態は正しくないと感じているのであって、師父が私たちに遺したものではない。それに重要なのは、このように困難な状況のもとでも、私たちはまだ自分の良くない部分を探すことができるのか、まだ他人をために考えることができるのか、そして大法を一番に置くことができるのか?また、私たちの表面の物質の喪失というのは、私たちが表面にある物質にあまりにも執着しているために旧勢力が弱みを掴んで作った結果ではないでしょうか?それは肉を食べることのように、肉を食べることができない、食べるとおなかが痛くなる。そうなるのは肉に対してあまりにも執着すぎたためであり、そして肉の食べられないこの時期だからこそ人間の肉にたいする執着を捨てさせるのである。もちろん、これは個人の修煉の角度からみてそのようにいっているのである。

 労働教養所では、大法弟子たちが自由を失い、非人道的な虐待を受けていて、本当に難しいのである。しかしこのような“難しい”環境のもとでも、私たちはまだ心を静めて自分たちの執着を探すことができるのか?師父は私たちが苦しいのを知っている、私たちのことを忍びない、そしてこれらのことについて言及したくもない。しかし師父は私たちにこのように伝えた:“忍び難きは忍びうる、行い難きも行いうる。”私たちは新しい宇宙に入ろうとする生命であり、無私無我の境地に達し、成住不破である。旧宇宙の生命たちが解体に直面するときに、壊滅を直面するときに、このようなとてつもなく大きい困難の前で、彼らが考えたのは自分を保全すること、自我を保護することである。しかし大法弟子としてはまさに困難の前でも、自分が苦痛を耐える状況のもとにおいても、まだ他人のために考慮し、衆生を済度し、本当に“無私無我”の境地に達しなければならない。それで成住不破に達しうるのであろう!

 ここにおいてこの話題を打ち出して、レンガを投げて玉を引き寄せる、私たちみながより大法の基点から問題を考慮し、問題を認識し、そして心性を高めるなかで苦難を打ち解けるように願う。

 それでは私たちが一緒に師父の数段の講法を復習しましょう:

 “本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、そして真に実行できれば、難しいことは何もありません。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません。功法を修煉すること自体はそれはど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです。なぜなら現実の利益の真っただ中で、心を捨てることは至難だからです。利益がすぐそこにあるとき、心をどうして捨てられるでしょうか?難しいのは、実際その点にほかなりません。人と人との間にトラブルが起きたとき、そこに居合わせたわれわれがどうしても我慢できず、自分を修煉者として律することすらできないようでは、話になりません。わたしが昔修練していたとき、多くの高人がこんなことを言ってくれました。「忍び難きは忍びうる、行い難きも行いうる」。実際その通りです。みなさんはお帰りになってからぜひ試みにやってみてください。

本当の劫難に直面したとき、あるいは関門を乗り越えるときに、試みてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行い難いといわれても、本当にいけるかどうかを試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗花明又一村」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません。”(『転法輪』)

 “修煉はなんといっても難しいのです。天が崩壊し、地が陥没しても、邪悪が厳しく迫害し、生死存亡にかかわる時でも、まだ確固として修煉の道を歩み続けることができる、というところに修煉の難しさが現れています。人類社会のいかなる出来事も修煉の道を歩むのを阻むことはできません。”(『道』)

 “難しいのです!時間的にも経済的にも結構、難しいのです。難しいからこそ、威徳を体現出来るのです。難しいからこそ、威徳を樹立する良い機会なのです。素晴らしいことです。皆さんは修煉者だから、難しくても更によく行なわなければなりません。お話はこのくらいにしましう”(『2001年カナダ法輪大法交流会における説法』)

 “弟子たちは自分自身がひどく迫害されている情況下で、まだ真相を伝え、衆生を救っていますが、これは大いなる慈悲ではありませんか? 大法弟子として、どんな環境においても衆生への慈悲を表すべきです。他の角度からいえば、大法弟子は自分自身がこのように迫害されていてもまだ衆生を救っており、更に大法弟子の偉大さを顕しています。”(『ワシントンDC国際交流会での説法』)

 “このように言っても、あの環境の中にいなければ、言うのはとても簡単そうに見えるので、師父はここで説法をする時国内のことについて話したくはありません。国内は本当に非常に大変です。しかしいくら大変であっても、自分の未来が何であるかを考えたのでしょうか? 将来の果位が偉大な威徳を基礎にする必要があるということを考えたのでしょうか? あなたが得ようとしているのは法を証明したことのある神、佛の正果であると考えたのでしょうか? 本当にこれをきっかけに人間のことを全部放下したのでしょうか?! 本当に金剛不動になり、執着も漏れるところもないのでしょうか?! 本当にこのようになったら、再び環境がどうなるかを見てみれば良いのです。”(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)
 


悲しまないで

牢獄に身を置くのを悲しまないで

正念と正行するのに法がある

心を静めて執着事を省みれば

人心を捨て去ると悪自ら破る

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/2/76162.html