日本明慧


艱苦に満ちた道のりであっても精進しなければならない

 文/大陸の学習者

 【明慧ネット2004年6月2日】99年7月、江沢民政権による弾圧が開始された後、国内の学習者は精神的にも肉体的にも甚大な迫害を被った。この数年間、我が家は5回も家財を没収され、2台のパソコン、3台のプリンター、ビデオなど多くの私財を失った。 また5回も拘禁され、うち1回は2年の労働教養に処された(服役中に重病のため保証人を立てて一時出所した)。何度も魔の手から逃れることができたが、精神と肉体は巨大な迫害を受けていた。当時は、常人の心と人情が度々湧きだし、更に法の勉強も足りなったために、外に出ては憂さを晴らそうとしようとまで考えた。 

 4月の初め、わたしは旅行用バッグを背負って、汽車に乗り武当山に行った。武当山に対しては、言葉では表現できない一種の感覚を持っていた。だからどんなに疲れようと、最後まで自分で歩き登りたいと思っていた(“どんなに疲れようと最後まで歩いて登りたい”この強靱な意志は、まさに修煉する上で自分に必要なものであった。行い難きも行いうる…自分が法の中で精進する気持ちを常に持つのでさえすれば)。私と19歳の僧が3、4時間を歩いた時、また一人の人が後から追いかけて登ってきた。この青年は西洋医学を学ぶ大学生で、今年卒業する予定であるが、山に登り彼の師父を見舞い来た1人の道士であった。私達は一緒に歩き始めた。

 若い僧は、「武当山に行き洞穴を探し、そこで一人で修行をしたい。廟の中では、既に修煉することが難しい。廟は観光の場所となってしまった。もう1度良い師父に出会いたい」と言った。これも偶然ではないと思った。彼はずっと私の師父を探しているのであるが、人という一面は、本当のことがよく分かっていないのである。それから、私は彼ら向かって大法について話し、私が法輪大法を修煉していることを伝えた。若い僧はなんともなかったが、青年は少しテレビの害毒を受けるようで、法輪功が既に世界60ヶ国以上で広く伝わっている状況を教えた。 

 道中水を売っていないため、私達は喉が渇いていた。青年は彼の師父のところに行って、そこで水を飲んでからまた歩こうと誘った。しばらく山道を歩くと、遙か遠い所に3軒の家が見えた。1人の道士服を着た女性が、畑で野良仕事をしていた。青年は遠くから叫んだ。彼の師父は私達に向って微笑みながら手を振っていた。部屋に入り水を飲んで話をする時、もう1人の道士が入って来た。私を見ると、彼は既に私が来ることを見たと他の道士と低い声で話していた。道士は、私と若い僧に対し、「わたし達が修煉するのは同じ法門ではないが、良く修煉できることを望む。この数年に3回の封神を要する。人類はもうすぐ広面積における淘汰に直面し、今多くの人は既に人ではない」と言った。私は法輪功を修煉していることを話すと、彼らは最初とても驚いた。彼らはいくつかの事が見えることができでも、その次元は限られており、しかも、大法に対していくつかの偏見を持っていた。これも偶然でないと思い、大法の真相を伝えた。彼らも済度されるべき生命だと思っていた。

 女性の道士は、私に残ることを希望した。これは今度の旅の中での一つの災難でもあった。また、自らここまでやって来たのであるからだ。“不二法門”の問題が直ちに浮かび、既に師父がいると言い断った。昼食を食べ終わってから、私と僧は引き続き道を急いだ。翌日また数時間登って、やっと頂上に到着し、そして上の旅館に3日目まで滞在した。午後、私の部屋に、2人の中年女性が来て、しばらくして、彼女たちと一緒だった中年男性が来た。彼は私に会うと彼女たちに対して、「彼女の(私を指して)の根器はとてもよい」と言った。そして、今まで何度も天から世の中に来て修煉したのだ等と言ってくれた。

 二人の女性は修行するものであると教えてくれた。そして、彼は宿命通功能があると言う。男性は、引き続き私がかつて、どこで修煉していたかをいくつか教えてくれた。私は聞き終わってからとても驚き、心の中は辛かった。以前、師父はわたし達に教えて下さった。法を得るためにかつて歴史上何度も修煉を積みながら待っていたということを。その時、自分は完全に理性的に法を認識できず、ただ意識上で1つの解釈法を知ったようで、人の観念によって妨害され、法を自分の生命のミクロまでに溶け込むことができていなかった。でも今日、私は法を得るために学習者が歴史の上で、どれほど修煉を積み無数な苦しみに耐えてきた状況を見ているかのようだった。このことは重い鉄槌のように、私の心を打った。

 その男性は、私の下腹部の中にあるものが見えたと私に言った。そして絵を描いて見せた。これは法輪であることを教えた。自分は法輪大法を修煉するものだと話し、国内の学習者はこの数年皆とても残虐な迫害を被ったこと、大法が世界の多くの国で広く伝わっている真相を伝えた。彼らは聞いてから非常に同情してくれた。この男性も、天から多くの神がこの世に降りて、修行していることを見ており、現在常人の中にも、まだたくさんの果位を持っている人が迷ったまま目覚めていないと言った。

 晩ご飯を食べ終わり、わたし達の部屋に来て、自分の持っていた《転法輪》を持ち出し、彼らに見せた。そして、師父の写真を見せ、この方が師父であることを伝えた。男性は手にとってじっと見ていた。私の功能に執着する常人の心が湧き上がり、彼に聞きながら言った:「師父は私の修煉に対してどんな要求があるのでしょうか(修煉を積む人にとって、これはとても危険な考えである。着実に法を学んで行く中で、師父と大法の指導を得ようとするのではなく、外へ向けて求める心であり、他人の功能を借りて“近道”を歩こうとしているからである)。幸い彼は、「あなたの師父はあなたがちゃんと修煉できること、もっと立派に法を実証できることを望んでいる」と言った。頷きながら、そうですかと答えた。続いて彼は、「あなたの師父は、あなたが修煉円満できたならば、師父に会えるとおっしゃっている。師父はもっと口を修め、徳を修めることを望んでおられる」と言った。

 後になって、私は意識した。この何日か耳にする多くの事を、師父は大法の中で全て教えてくださっていた。師父が大法の中で学習者に教えてくださったことは、これらをはるかに超えているのである。自分はまだ法の勉強が不足しており、肝心な時に長い時間を消費しながら迂回してしまい、直接大法の中から、師父がおっしゃった天機を受け入れることができなかった。これも一層の修煉へ向かう心を表す問題であろう。師父はこの方面の試練は、修煉が終わる最後まで続くとおっしゃったことがある。この道中全て師父の加護のおかげであると思う。さもなければ、内心の深い所から発する功能に対する執着や、外部に対し何かを実証しようとする情などは、自分の修煉に必要ではない面倒と妨害をもたらしやすいものである。

 これらの記述したことは、全て後に法の上で認識し、個人的に書いたものであり、参考となるかと思った内容である。実際には、今回の旅の中で自分が言ったこと、耳にしたことの中の一部は、発生すべきではないものである——正念がより強く、情がより少なければ、発生しなかったはずである。慈悲なる師父は、ずっと加護されており、より法の中で精進できるように、案配されているということを感じている。しかし、修煉中の苦しみを常人の心を用いて評価をしたのである。

 一人の人間が、修煉して偉大なる神になれるということは、苦しみに耐えることなく、代価を払うことなく、いかにして出来るのであろうか?古い勢力の案配を全面的に否定するということは、決して言葉だけでは済まないものである。まして正法修煉に対し、学習者がどんなに多くの代価を払ったとしても、師父が引き受けられた苦難と比べ、及び最後に獲得できるものと比べれば、全て取るに足りないものであろう。 

 その日の晩、ベッドに横たわりながらも、頻繁に寝返りをうち、心中はきわめて辛く、一晩中眠れなかった。大法の弟子が、衆生を済度する上で、重大な歴史的使命を担っているということを、改めて認識することができた。全ての学習者と共に、更に常人の心の執着を捨て、精進に努め、余すところ幾ばくもない貴重な時間を大切にして、大法の弟子として、すべきことをしっかりと行っていこうと思う。


 (中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/2/76164.html