日本明慧

目覚めよ:我々の道を正しく歩む(下)

 (前文に続き)

 【明慧ネット2004年6月6日】

 4、目覚めよう

 数年来、各地の資料ステーションが受けた教訓と損失は余りにも多くて、あまりにも深刻なものでした。振り返って見ると旧勢力の黒幕は隙に乗じて三つの文字、名、利、情を埋め込み、問題が現れた人のほとんどが“名、利、情”に執着して大間違いを引き起こしています。このような情況をもたらした一つの重要な原因として、資料ステーションとその周りの学習者の心性修煉が追い付かないことにあります。また長期に渡って法の勉強を重んぜず、原因を自分の心の中に探すという大法の理に照らし合わせず、前回の資料ステーションが破壊された教訓を真剣に受け止めませんでした。

 ある学習者は理知と冷静さを失って、事件が起きる前に忠告を受け入れませんでした。事件が起きた後にも根本的に原因を自分の中で探すのではなく、かえって簡単にある仕事の一環に手落ちがあったからだと片付けます。それでその一環を良く行えば済むことだと認識していますが、これは大法弟子が大法を実証する中で必ず必要となる心性修煉の要素が含まれていることを否定することに等しいのです。

 実践が証明しているように、いくら仕事をやったとしても修煉に取って代わることはできません。情熱も同様に心性修煉に取って代わることができません。誰であろうとも、どれだけのことをやるにしても、長期にわたって大法の基準に準じて厳しく自分の心性修煉を行わなければ、特に中国大陸のそのような厳しい環境の中では各方面からもたらされる問題と損失から免れることはできません。

 一人の大法弟子は、どれだけの真相説明を行おうともすべて正法時期の大法弟子として行うべきことです。しかし、もし大法弟子としてやるべきことではないことをやってしまえば、例えば、ある地区の真相環境を破壊して、甚だしきに至っては大法弟子を裏切って、迫害されて死に至らせられるなどの罪は、山のような天のようなもので返し難いものです。大法の原則に反して行った学習者は、実際のところ同修に害を与えただけではなく自分自身を駄目にしました。

 目覚めましょう。大法の原則に反した当事者は、必ず心を静めてよく法を勉強して、これから良く法を勉強することによって、自分の心性修煉を良く行って、一本の正しい道へと歩んで進んで行かなければなりません。これは本当に自分を大切にすることができるかどうか、大法を大切にして師父の体現を強く信じることができるかどうかの肝心なことです。他の学習者も良く自分の中で原因を探して、どうしてこれらの事が自分の周りで起きるのか、自分の言行には基点上の偏りがないか、また修煉の基本の問題上のどれが未解決であるかを良く判断して、早く向上しなければなりません。正法は永遠に続くわけには行きません。機会も永遠にあるものではありません。「迷いの世間に執着せず、正念を堅めよう、千古以来たったこの一回だけなのです」[1]。我々は必ず大切にすべきです。

 5.提案

 1) 正法修煉の立場から大陸の資料点を守り、Web上の安定な運営を図る

 邪悪がまだ最終的に一掃されておらず、悪を働き続けており、資料点の建設や管理上沢山の問題が有り、我々の衆生を済度する使命はまだ極めて困難でありますが、宇宙大法の大法弟子に対する純正の基準は揺れることなく目下一時的な困難によって、修煉の要求を下げることは有り得ません。

 従って、我々資料点の仕事に従事している大法弟子には、明確な心性要求が有るべく——必ず真の修煉者の心理状態でしか大法Webや資料点の実質的な仕事に従事することができません。修煉状態が良くないか、暫く間修煉について来られない人に対しては、皆が本人に大法の仕事から外れて貰い、心を静めて法の勉強を行い、正念を強め、再び精進するように薦めるべきです。「ため息を少なく、自ら省みて、正念を増やし、足りないところをはっきりと考え、さらに精進する」[2]。

 師父は1996年6月に、「一人の修煉者は即ち常人の執着心を取り除く者である」[3]と話されました。個人修煉の時期に、「各地輔導点、総補導站及び学会は大法の為に責任を負うため、全ての補導站及びその下にある補導站の責任者を更迭する権利があるから、時には異なる情況によって責任者を更迭することがあります。責任者はまず一人の修煉者であり、修煉しに来たのであり、責任者になるために来ているのではないから、昇格されることも、降格されることもできるようにならなくてはなりません。責任者に昇格することは修煉のためであり、降格されても同様に修煉しますが、降格された人が心の中で耐えられないのならば、それはまさに執着心が作用をしているのではないでしょうか? これはちょうどその心を除く良い機会ではないでしょうか? それでも、やはりその心を放下できなければ、まさに降格されたのが正しいということを物語っており、責任者になることに執着すること自体は修煉の目的が不純なので、弟子の皆さんに注意しておきますが、皆さんはこの心を除かなければ圓満成就することができません。」[3] 正法修煉時期の今日、資料点(個人のを除く)仕事の影響は個人の修煉を遥かに超えている為、大法弟子が営んでいる資料点では心性を各学員の資料点における適正判断基準としなければならず、資料点は全体として大法修煉者の心性境地を測るようにすべきです。これは、本人のみならず資料点に対する責任であり、現地の住民に対する責任でもあります。

 2)資料は真相説明の肝心な一環であり、皆の共同責任である

 資料の仕事は学歴と関係無く、パソコン技術の有無とも関係無く、大法弟子の正念が強く、心を込めた取り組みさえ出来れば、直ぐ伸びると思いますが、「学べない」「学ぶことが出来ない」というのは、常人の中で形成された観念と思想業力による妨げと制約に過ぎません。明慧ネットの「単線連絡」を特徴とする「至る所に花咲く」ということは、別に望むだけでおよばないことではなく、肝心なことは皆自分自身を突破し、決心を下さなければなりません。大法の中には我々が必要としているすべての知恵とパワーが有ります。

 同時に、たとえ直接資料点の仕事に従事する大法弟子でも、法を守る作用を果たさなければならないし、大法の原則に反するやり方を市場に提供するべきではないと思います。仕事への熱心度合い、仕事のさばき量等を心性の修煉に代替し、常人能力や技術レベルを、資料点への人事採用基準にし、現地の真相説明に様々な問題と損失をもたらしてはなりません。

 3) 小規模且かつ「至る所に花咲く」資料点原則を再強調

 明慧編集部が一貫して強調しているのは、資料点の設立は「至る所に花咲く」が原則です。それは、大法は「大道無形」の原則に由来し、実は師父の要求であります。すべての大陸の学習者が、積極的に資料作りに心を込め、迫害に反対し、真相を伝えれば、邪悪は集中して少数の大法弟子を迫害する事が出来無くなり、少数の資料点を破壊することで全区域の大法の仕事を破壊することは無理なのです。もし我々各家庭や個人の資料点の大法弟子が積極的に真相を説明し、世の中の人々を済度するという特殊な修煉形式の中で絶えず自己の心性を高めて行けば、我々が迫害を取り除き、旧勢力の按配を打ち破ることになるのではないでしょうか!

     *  *  *
 我々は大法の為に、衆生の為に、同修者と自分の為に責任を負うことを原則として、お互いに注意し合い、我々正法時期の修煉という永久な機縁を大切にし、共に精進し、正法修煉の道を正しく歩みましょう。


 明慧編集部 
 2004年6月5日

 [1] “元曲 梅”,師父著《洪吟》(二)
 [2] “理智醒覚”,師父著《洪吟》(二)
 [3] “修煉と責任を負うこと”,?父著《精進要旨》

 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/6/76500.html