大法は決して常人社会の理論ではない
文/中国大陸大法弟子
【明慧ネット2004年6月7日】
ある日、某同修が私にここ数年間の修煉および法を実証する情況について、“理論は理論で、現実は現実だ”と言った。これに対して、私はすぐにこのような認識は間違っていると指摘した。この同修はかつて邪悪によって牢獄に入れられ、苦難をも経験した。その他の同修たちが厳重な迫害を受けるのを自分の目で見た。自分にも似たような経験があるのだと思うと、同修がなぜこのように考えているのかと疑問を感じざるをえない。明らかにこの種の認識は大法を常人の理論と混同していることは言うまでもない。師父が『論語』の中でもこの問題について明示したように、弟子たちの修煉の過程においても大法が常人社会の理論ではないことを実証した。もちろん、この同修の潜在的なセリフを通して自分の修煉にはまだ距離があると反映したことも感じた。
それでは、どうしてこの同修が前で述べたような常人の観念を持つようになったのだろうか? 邪悪の迫害の最中に依然として大法を堅持し続ける弟子がなぜこのような原則的な認識を混同することがあるのだろうか? 自分の修煉の経歴および以前出た同じ疑惑を回顧して、原因を探してみた。
第一に、後天的に形成された観念が非常に深く隠されていて、それが時々修煉者の隙間に乗じることがしばしばあって、正悟の邪魔をする。常人が物事を覚えるときから学習するようになっているため、自然と“理論”および“実際”の観念が形成されることになる。たとえば常人が常に言うように“理論が実際に連係する”そのために常人は根が深くて容易に動揺しないほどに教科書の内容は経験のまとめ、系統的理論であると考え、そしてこれらの理論知識は実践の検証を通して初めて真理になると認識している。修煉者である大法弟子がもしこの種の観念を根絶することができなければ、大法も知識と理論だと誤認することになり、そうなると自ら大法の内方と隔絶されることになり、大法の非凡なすばらしさを認識することができなくなる。旧勢力はひいてはあなたの弱点に乗じて自ら彼らの“試練”、“検査”を受けるようにさせ、あなたを壊滅させる。
第二に、深くまで法を学んでいないためであり、時に“見えなければ信じない”“あるかないか”“信じるのか信じないか”の疑惑さえも生じてきて、正悟の妨げとなる。苦難が来たときに、内に向かって探さず、ひたすら奇跡が現れるのを待つ。しかし結局白紙と黒い文字が以前の明鏡止水の如く止まり、大法が本当に常人社会の理論と誤認するに至る。
第三に、修煉の過程において、時には常に新たな問題が生じ、自分の意に叶わず、挫折感を感じる。大法弟子の要求と対照すると、時に後ろめたいと自責する。ひいては時にはだんだんと執着するようになり、自分との距離があまりにも大きいと感じ、常人の観念が出てきて、“理論は完璧ではあるが、しかし現実とは常に思う通りにはいかないものだ”と考えたがる。
第四に、7.20以前に法を得たにもかかわらず、法を実証する中で多種の要素のために“病業”*(注①)形式の苦難あるいは他の形式の苦難が再び現れてくる。そのために自分に常人の観念がこんなにも深く隠されていることを痛感させる。問題を認識したときに、時には“実践と理論とはやはり遠く離れたものだから、容易には成しえない”との考えが出てきて、“大法も一種の精神の信仰にすぎない”との考えも生じてくる。それではまた大法を常人社会同等レベルの理論、常人社会の同等レベルの宗教と考えることになる。誤った認識および観念が法を実証するのに不便をもたらす。これは私が自分および同修の情況から伺って分かったことである。
*(注①)(病気のような現れ方をしているが、実際は自分の業を消しているとき、執着のためにもたらした身体の苦しさ、あるいは自分の信じる心を試すときに出てくる、本当の病気ではない。) (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/7/76493.html) |