口を修めることは心を修めることでもある
文/大法弟子
【明慧ネット2004年6月17日】
修煉の初日から、私は口を修めることに注意しなければならないのを知っていたが、しかしできないときがしばしばあった。ある同修が口を修めることは心を修めることでもあると言った。この言葉は非常に道理をわきまえていると思う。あなたは自分の心をどれほど修めることができたかは他人はその外見から見ることはできない。しかしあなたがもし口を良く修めることができなかったら、皆それを見ることができる。ひいては周囲の環境に影響するかもしれない。ある時、私は親戚の家に行くときに、彼の家はちょうど内装中だった。そこで親戚との会話の中に作業員の仕事のスピードが遅いということを聞き、私は口から出任せで“彼らは自給で給料をもらっているから、そりゃ遅ければ多くもらえるな”と言った。話が終わったとたんに、家の主人が作業員たちを叱った。このことで私は非常に後悔している。
私は表面の部分しか見ていない。それに私の観点はただの推測にすぎない。確かに自分は悶着を起こそうとするつもりはなかったが、しかしこの種の話は決して良い話とは言えない。故にその矛盾を激化したのである。一人の修煉者としてはあってはならないことである。実に言葉は口から出たとたんに、かけた水のように取り戻せないものである。常人の間のことについて、言う方としては何も気にしていなくとも、しかし聞くほうとしてはその心を傷つけるかもしれない。故に口を修めることは非常に難しいのである。ある日法を学んでいるときに、私は突然“皆さんご存知のように、佛はめったに口を開きません”(『転法輪』)の部分が目に止まった。私はすぐに、一人の修煉者として、常人と混同してはならない、毎日言うべき話以外はできるだけ言わないほうが良い。と言うのは話が多いのはそれなりに自分および他人に迷惑を帯びてくるかもしれないからだ、と悟ったのである。
私の周りでは、一部の同修たちが以前に間違いをして遠回りをした同修たちに対してかける言葉は時に厳しい。他人の過ちを容認することができない。しかしえてしてこの種の言葉を言う人はその行為を見ると彼のあざ笑った人にも及ばないことがしばしばある。局外者としての私はこれらを見てからすぐに悟った。人はその言うことにしても成す行為にしても、皆最終的には自分のために言い、自分のための行為となるのである。私たちの成す行為は皆自分の生命の行く先を作っていくことになる。私たちが何かをするときに不真面目でその責任を負わない場合では、私たちはまず他人を傷つけることになるが、しかし最終的には自分を傷つけることになる。これはこの世の理—自業自得である。私たちは皆主佛の足元にいる修煉者であり、縁があって一緒にこの世に生を受けることができた。まだ“修煉のものは千年の時に会いましょう”の言葉を覚えているだろうか? 私たちは確かにこの貴重な因縁をもっと大切にすべきである。相互の長短を補いながら助け合うべきである。皆誰でも過ちを犯すことはある。
私たちにはなんの権利があって同修を軽蔑することができようか、何の理由があって衆生に恨みを言うことがあろうか? 人の口とは禍福を司る扉であり、舌は鬼や悪魔を排除する剣である。私たちは口を通して福音を世間に伝えるべきであり、衆生により多くの慈悲、温和を伝えるべきである。
終わりの言葉:
修煉の道のりには、それぞれの人に皆自分の辛さおよび困惑を抱えているのである。私たちはただひたすらに前進することしか見ないのではなく、一定の時期あるいはある程度の道を歩んでから、振り返って自分の道を見て、心を静めて法をもって自分が果たして正しいのか、よくできているのかをはかって見るべきである。小さい過ちから大きな法理を悟ることができれば、根本的な問題を解決することができ、それで自ら自分を修正することができる。ただチャンスを狙ってうまく立ち回るようにすることではなく、近道など考えないで、ただひたすら心を修め、欲を絶つように努め、衆生および神々が敬服するような立派な修煉者になろう。
真相を伝えることも同じである。量ばかりに目を奪われないで、その質および効果こそが大事である。後期に遅れて出てきた学習者および恐れる心の強い学習者にとっても、自分だけが除外されて円満できないことを避けるために行動する考えを持たないでほしい。それは、このような汚れた人心で宇宙の中でも最も神聖なことをする神への冒涜であり、自分および衆生にとっても無責任である。私たちは純粋な心で自分にできる限りのことをよく成すべきであり、少なくともその質を保つべきである。もしあなたが正々堂々と真相を伝えることができなければ、あなたは側面からの引導ができるのではないか。もしそれもできなかったら、心を静めて正念を発し、適当な機縁を選んで自分の立場を表明することもできる。あなたの心中に師および法さえあれば、きっとあなたにとってやりたい、そしてうまく行えるようなことが現れてくるでしょう。信じましょう、あなたが法を学ぶときに内に向かって探すことさえできれば、あなたは常に向上していることになり、すべては自然な昇華であり、求めずして自ら得るものである。
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