求める心を無くし、純粋に向上する
【明慧ネット2004年6月11日】これより、私の修煉中の体験を少し話し、同修とともに学びたいと思います。
師父は経文《圓満に向かって》の中で“もしもそうであれば、私の弟子であるとはいえません。これは根本的な執着心が取り去られておらず、法に基づいて法を認識できていないと言うことです。”と強調されています。私は、もし最後になっても大法に同化することを修煉の目的とせず、返本帰真の願望を持って大法を学ばず、他の目的をもって大法を学ぶのなら、たとえ学習者がその目的をどんなに高貴で、正確なものだと思っていようと、わざとだろうと無意識だろうと、すべて大法を利用していることになり、何も得られないと思います。師父は《転法輪》の中で“各種の求める目的をもって功を学び、大法を学ぶのなら、何も学び取れません。”とおっしゃっています。
私は修煉を通して、求める心をもって執着をなくそうとしたり、心を修めたりすると、その問題において前進することが難しくなることを招くということが分かりました。つまり、もし執着をなくし、心を修めるときに求める心があると、その一歩のレベルアップで徘徊してしまって前進できなくなるということです。それは執着が長期にわたって消えず、精進することが難しくなるということに表れます。
求める心をもって執着を取り去ろうとすると通常次のように表れます。ある具体的な問題を解決するために執着するということです。あるときは無意識のうちにしていますが、心を静めるとそれに気づきます。これより例をあげて説明します。
1、 怖がる心を取り除くのは捕まらないようにするためだ、という考え。なぜなら師父は《洪吟》の“何を怖がるのか”の中で“怖がれば捕まえられる”とおっしゃったからです。通常起こりやすい考え方としては“怖がる心を取り除けば、捕まらないはずだ”というのがあります。
2、 欲情を取り除くのは師父に見捨てられないようにするためだ、という考え。なぜなら師父は《大ニューヨーク地区での説法と法の解説》で、“最近周りで男女の関係についてのことがあるが、・・・・・・”について話されていたときに“わたしが本当にあなたを見捨てるときは、あなたが地獄に入るときです。”とおっしゃったからです。
3、 邪悪に邪魔されて仕事が見つからず、生活が問題となったときに正念を発するときやそのあとで“自分の邪魔をする邪悪が取り除かれれば、仕事を見つけられる”と考えること。
4、 邪悪に迫害され、非法に捕らえられ、拘束され、自分の執着、良くない心を取り除いているときに“この心を取り除けば釈放されるはずだ”と考えること。
・・・・・・自分でこの問題に気づいた後は、心を修めるときに求める心を無くすように心がけましょう。向上するのがはっきりと速くなり、以前の阻害され、精進の仕様がないような感覚は二度となくなるはずです。師父は《転法輪》の中の“肉食問題について”で、“一人の修煉者として、今はそれを一つの執着心として取り除いてみてください。取り除けるかどうか見てください。”とおっしゃいました。私は、それは執着を取り除き、心を修める過程においても同じことだと思います。つまり、何か良くない心や執着を見つけたときは、ただそれを取り除きます。それは私たちの返本帰真の道の障害であり、執着であり、必ず取り除かなければならないものであるからです。問題を見つけたときは求める心をもたず、純正に向上しましょう。考えが増えると、執着がまた一つ増えるのです。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/11/76811.html) |