日本明慧

“私は今年で8歳になる”—膵臓癌患者の新生

 文/籍洪(トロント)

 【明慧ネット2004年6月18日】

 私は1953年に生まれた。なぜ“私は今年で8歳になる”というのか? そこには私が経験したある物語がある

 *癌遺伝の諸世帯

 私は北京で生まれた。昔から北京の西単の辟才胡同に住んでいた。1958年に父母と一緒に遼寧省の瀋陽に移った。私が小さい頃、ある日父の気が沈んでいたのを見て、母から伯父が食道癌のため死んだと教えられた。それはおよそ1962年のことで、私はそのときから癌という恐ろしい病気について知るようになった。

 それから母に、祖母も乳腺癌のため死んだと言われた。瀋陽市で手術を受けたとき、私は両親と一緒に病院で彼女を見舞いに行ったのをかすかに覚えている。文化大革命の時期になると叔父も食道癌で死んだ。そのとき私は北京で兵役に服していた。叔父が北京の伯母の家に行き、私が休暇をとって彼を見舞いに行った。それから間もなく彼が死んだのを耳にすることになった。それからは兄が(叔父の息子)膵臓癌を患い、母の話によると発病してから3ヶ月で死んだらしい。すぐに、1978年に父も喉頭癌を患った。そのとき私はちょうど峡西にいた。父が北京で治療を受けたのを聞いて、私はすぐに北京の病院に駆けつけて見舞いに行った。彼は数十年間ヘビースモーカーであったが、癌にかかったのを知り、タバコをすぐに止めた。医師の話によると、父の喉頭癌は速めに治療を受けたため、化学療法で治療できると言った。しかし私が峡西に戻ってから間もなく父の危篤の電報を受けることになった。家まで駆けつけた時には、父はもうすでに死んでから数日も経っていた。80年代になると、私の姉も乳腺癌を患い、二回にわたる手術を経て、なんとか生き延びた。私の(4番目の)李叔父は胃癌のために死んだ。私は彼の追悼式に参加した。そのときに私の家族にはすでに7人が癌を患い、6人が死んだ。

 *網にかからなかった魚?

 そのときに私は考えた:“私はもしかすると網にかからなかった魚なのかもしれない”と。しかし私もその悪運から逃れることができなかった。1995年の秋に、私は酷く痩せていて体の具合が悪いのを感じ、肌が黄色になっていた。B超音波、CT検査を受けてから共通して胆汁管が太くなっていることを知り、最終的には北京で膵臓癌と診断された。その年に私は42歳になっていた。その当時の自分はただ受身で、どうしようも無かった。私はもとからいつもしっかりした見解を持っていなかったので、ただいつも家族と各地で検査を受けるしかなかった。

 大変酷い目にあった。北京にいた頃に、医師はもう一歩進んだ診断を行うため、私に異型管撮影を受けさせた。つまり一本のゴム管を口から胃に差込み、十二指腸を通過して胆管に入れる。検査前にサインする必要があり、危険な事態に備えるためであった。手術室内に、私はあまりの痛みのため耐え切れず、医師に止めさせた。それから手術を受ける準備になるときに、ある経験豊かな外科医師を探し出して、彼に会うと、すぐに“私を助けてください、まだ死にたくないのです!”と求めた。彼は私を見て、空気を深く吸い込んでから速く手術しましょうと言った。私はこれを見てもうどうしようもないと分かった。手術のときに、お腹の中を見てから、医師は手術室から出て外部にいる他の医師と意見を交わした。私の癌はもう中晩期となっていた。癌を切り取らなければ数日多く生きていけるかもしれないが、しかし手術が失敗するとすぐにもっと速く死ぬことになる。家族の者は医師の意見を受け入れるしかなかった。担当の医師が手術室に戻ると、胆管を十二指腸につなげ、消化道の問題を解決した。そして針で貫いてから、外を出た。自分の子供、夫のことを考えると、いつも涙が止まらなかった。それからもう考えなくなった。私には未来がない、この世界は私にこれ以上何の意味があるのだろう?

 それからすぐに化学療法を受けた。太ももの部分の動脈血管部皮膚の下にポンプを入れ、一本の金属伝導管につないで、胆管に挿入し、患部のところまで入れた。手術は5時間を要した。医師たちは疲れ果てて外でタバコをすっていた。どうしても伝導管を正確な位置に送ることができなかった。手術台で横になり、血が背中に流れてくるのを感じた。汗びっしょりだった。やっと終わってからも、苦しみは終わらなかった。化学療法をしてから、髪の毛が全部落ちて、顔色が灰色になっていた。体重もすごく減った。バスに乗るたび、周囲の人が皆避ける。どこかから来た“お化け”だと思われていた。お百姓の話で言うと、“病気は治されても命は治されない、死ぬのは早晩のことである”生ける日まで生きようと思った。

 95年末に病院を出て帰宅した、毎日薬缶満タンの漢方薬を飲んでいた。亀の血、新鮮なナマコなどの補充が止まらなかった。96年末まで耐えると、お腹の痛みも局限まで達した。生きるにはあまりにも苦しい、疲れ果てて、こんな酷い目にあい、しかし死のうにも死に切れない。どうしよう、この喧騒な世間から離れてお寺で悠々と暮らそうとも思ったが、しかし晩期の癌のため行けないと思った。私の勤めていた会社の同僚の母がキリスト教を信じていたため、佛教、道教を思い出した。それでたくさんの関係の本を買ったが、全く読めなかった。

 *死線からの再生

 私がちょうど苦しみの中で、どうすればいいのか分からなくなったときに、法輪功を得ることができた。李先生の説法のビデオを見て、本当にすばらしいと思った。その当時はもう自分の命に何の希望もなかったため、それに私の性格も奔放となっていたので、この病気を患ったことについて、誰をも恨むことなく、運命だから仕方ないと思い、故にすべてを放下することができ、師父の本を読むときの雑念もかなり少なかった。本で言われたとおりに行い、よい人になるように心がけ、真、善、忍を基準とし行動するのに努めた。それはただ言っているのではなく、実際自分を厳格に要求するほどであった。心から気功で自分の病気を治療すことを放下し、法を堅持して学び、煉功を怠らなかった。知らないうちに体は見る見る良くなっていった。お腹がまだ少し痛いのを除いて、食事、睡眠などは非常に正常であった。それから痛くなる回数が減り、間隔が長くなった。私はもっと自信を持つようになった。毎日煉功していた。昼は自宅で法を学び、本を写し取った。そして私はだんだんと、人はなぜ苦しいのか、なぜ酷い目に遭わなければならならないのかを知るようになった。師父が私たちに修煉することを教え、真、善、忍を基準として行動するのは返本帰真のためであり、自分の真の本性に戻ることである。私の末期癌は治療されることなく癒されて、今日まで8年となる。私はこの8年間で始めて本当のあるべき人生を生きることができたと感じた。

 病はその患った人にしかその苦しみは分からない。特に致命的な病気はなおさらである。家族はだれよりも自分を愛してくれるが、助けることはできない。医師は病気を治療するものの、命を治療することはできない。私がそのときの病気の中で感じた孤独、絶望さは表現することができないほど辛かった、人の情けの変わりやすさ、この世の儚さ、人とはあまりにも苦しい存在で、永遠に苦しい存在であるのを感じた。一人で命の終焉に至るとまるで蝋燭のそのかすかな光が消えうせていくようなものであった。しかしこんなときに、李先生の伝授する法輪大法が私を救ってくれた。私の肉体および精神による苦痛を解いてくれた。

 私は自分の身に起きた巨大な変化をあなたに伝えたい。法輪大法は正法である。人を心身共に健康にする高徳の大法である。99年以来、江沢民が国家機関を操縦して法輪功に対するあらゆる貶し、でっちあげを宣伝したことは私には何の意味もない。中国大陸の数千万もの法輪功学習者たちが私と同じである。皆法輪大法を得て受益した経験がある。それもまた数年にわたる残酷な弾圧にもかかわらず、法輪功学習者たちが常に平和的に抗争し続ける不撓不屈の精神の原因である。私は平凡な百姓にすぎない。しかし人には良心と言うものがあり、苦しみにいる自分を助けてくれたものに、自分の最善を尽くしてもその恩を返したいということは分っている。私には師父の命を救ってくれた恩を返すことはできないが、しかし私は決して良心に逆らうようなことをしないし、嘘を言い、無実の人を罪に落とすようなことはしない。

 私はここで特に、中国の数億人の仲間たちが、中国大陸の法輪功に対する邪悪な宣伝を信じないことを願う。数日前に、私は二人の友人から聞いたことであるが、大陸ではある老人が癌に罹ったが、しかし治療する金がない。私たちの仲間はみな非常に苦しい日々を過ごしている。李先生が92年に中国で法を教え、一億人が心身ともに受益された。99年からの江沢民による弾圧故、そんなに多くの心身受益者たちを再び苦しみに陥れるなんて、江沢民は実に災禍の元であることよ。

 私は自分の身をもって経験したことを皆さんに告げ、華人同胞たちも法輪功に対してより公正な、はっきりとした認識を抱くことを願いたい。もし今回の迫害がなければ、私たち法輪功学習者たちも社会で活動をし、資料を配布しまた真相を伝える必要がなくなる。私たちは大陸にいる数千万の迫害されている法輪功学習者たちのために呼びかけ、彼らの圧力を軽減することを実に願ってやまない。私たちの真心と真意を理解してくれれば幸いです。

 私は法輪功を修煉してから8年が経った。法輪大法が私の命を救ってくれた。もし法輪大法がなければ、私はもうすでにこの世にいなくなっているかもしれない。私は50年間生きたが、しかし人生の意義を知ったのはこの8年間であり、故に私は“私は今年で8歳になる”と伝えたい!


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/18/77377.html