日本明慧


この問題は随分続いた
─ 師父のシカゴ法会での講法を勉強した感想 −

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年6月10日】 師父のシカゴでの講法を勉強し、特に師父が言われたすでに随分前から存在している問題について、本当に感無量だった。 

 師父は、「長い間、私はあることに気づいていますが、皆さんに話していません。なぜならば、皆さんが真相を伝え、その他の法を証明することをするのが非常に重要なので、このことにぼかされないようにしたいから、今まで皆さんに言いませんでした。皆さんが気づいたのでしょうか? 多くの学習者が他人から指摘されてはいけないのです。何かを指摘されると、すぐ怒ってしまい、心の中で耐えられないのです。このことは既に非常に目立っています。皆さん良く考えてみてください、師父である私さえ、皆さんに指摘することができなくなったのです。今日、師父が本当に皆さんのために思っており、慈悲の中で皆さんのために説法していると皆さんが分かっていますが、もし私が態度を変え、顔色を変えて皆さんに話したら、あなたはすぐ耐えられなくなります。本当にそうです。」と、言われた。 

 私は、我々自分自身が法を実証している中の実際の状況に結びついて、この問題についての理解を話す。99年以前の個人修煉中、我々は如何なる問題にぶつかったら、先ず“忍”をして、なんでも放棄した。他の人が我々にどんな待遇をしても、みんな心性を高めるチャンスと思って、我々に矛盾を作る人に感謝していた。我々はこんなに修煉してきて、心性が速く高められた。その時に、多くの常人が「修煉者の心理状態は素晴らしい!」と言った。これは純粋の個人の修煉だった。我々は誰かが我々に対する話した如何なる話も気にならず、超然として、本当に自在、厳粛、美しかった。 

 99年の7、20の後、我々の修煉には変化が生じていた。この変化は我々が思いもつかなかった。 "正法修煉"という修煉は思いもよらなかった。その時、多くの人が茫然した。たくさんの人がずっと個人の修煉の中に堕ちいって、なかなか乗り越えられなかった。ところが、修煉者は一旦、個人修煉から正法修煉に向かったら、"この問題"が表れた。正法修煉は我々に邪悪の試練を承認しないと要求し、邪悪を抑えて、邪悪の要求に協力せず、真相を伝え、邪悪を暴きだすことである。つまりもともと我々が思った個人修煉の中に完全に“内に向かって探す”ということが、邪悪が正法に対する邪魔の形式になった。もちろん今から見ると、我々は純粋の善ではじめて邪悪を制止できて、衆生を済度することができる。我々の邪悪を制止することは迫害に加わる邪悪と闘争するわけではなく、邪悪を抑え、衆生や法に対する罪を減らすことだ。最も根本的なことは衆生を済度することだ。ところが、純粋の善を持って邪悪を制止し、すこしの闘争心を帯びなく、如何なる常人の心を持たなく、邪悪の如何なる要求にも協力せず、邪悪の嘘と邪悪の迫害に対面することはすぐにできることではないと私は気がついた。我々はみんな修煉中に捨てていない常人の心を持っているからだ。心が動いたら、闘争心は簡単に蘇るのだ。 

 このような状況で、私が知っていた多くの学習者は如何なることにあったら“内に向かって探す”ことから、だんだんと邪悪を承認しないようになってきた。更に誰もが自分に好くしなければならない、自分に悪口を言ってはいけないことになった。その時に、私は本当に正法修煉が難しいことだと感じた。我々は常人の中で邪悪を制止するが、少しの常人の心を持ってはいけない。さもなければ、非常に厳粛な正法の使命を常人の闘争になりさがらせてしまう。 

 しかもこの問題は個人修煉の基礎が固くない学習者の中で更に問題が生じてきた。個人の修煉基礎が良くないために、迫害に反対する中で“内に向かって探す”ことを思い出さなくなって、完全に常人のような不満、ひいては恨みになった。結局、法に多くの損をもたらし、たくさんの人に法に誤解を生じさせた。みんなが「どうしてこういうふうになったのか?」と思っていた。学習者の中に何回も起伏が生じた。私は労働教養所にもこのような問題が目立っていたことを見た。ある女性学習者は情が重くて、何かをあったらまず“内に向かって探す”事を忘れてしまい、邪悪を制止する中で過激だった。例えば、ある学習者は恨みを持って、警察が手を振るのを見たら、「邪悪を除き、死ぬまで排除する!」と言った。結局、この行為はさらに深く法を勉強していなく、堅く修煉してない学習者に疑惑を生じさせた。これらの学習者たちは修煉の状態を判断する基準を法から見ず、人のやり方の表面から見た。どうしてこうなったのか? 正法修煉はどうしてこうなったのか? その中の人はこのような状態でうっかり転化させられた。その時に私は感嘆し、神様よ! どうして正法修煉はこんなに難しいのか? どうしてこんなに乱れているのか? と思った。

 労働教養所を出てから、多くの学習者は反省し始めて、たくさんの学習者は確かに正法修煉を認識し始めた。我々も前よりはっきりと、正法の中に修煉があり、修煉の中に正法があるということを認識できた。実際に正法修煉する学習者に対して、非常に高く要求された。高くなければならないことだ! 心性が高くなければ、法を正せないばかりではなく、かえって反対の作用になるかもしれないこのような教訓があまりに多かった。一人の大法弟子が是非如何なる矛盾の中に自分を見て、自分の欠点を見つけ、同時に我々は必ず法のために責任を持って、如何なる法を破壊する要素、如何なる衆生を迫害する要素に対して堅く清めるしかないのだ。我々の道は非常に難しくて、非常に狭いだ! 

 師父が今回の講法の中で、長い言葉でこの方面の問題を言われた。我々の学習者は良く反省する必要があると私は思った。今の我々の身の回りの学習者から見ると、この問題はとても重い! 多くの人はやはり自分を修煉することと法を実証することとの関係を正しく置かなかったのだ。われわれが今如何なる問題にぶつかったら、よく考えなければならないと思った。私はどうしてこの問題にぶつかったのか? もし自分に漏らすことがなければ、邪悪は我々を邪魔することができないはずだ。我々はこの邪魔を認めないが、我々はどうして邪魔されたのかをはっきりと知るべきだ。それは我々がまだ捨てていない心があるからだ。この問題に対して、海外の学習者も高い重視が必要だと思っている。たくさんの国外の学習者は法を得る期間が短くて、個人修煉の段階を経験しなかったからだ。多くの常人の心はきれいに除かなかった。国内の学習者はこの問題で、既に大きな代価を払った。今も補っている。我々の海外の学習者は重視しなければならない。 

 最後に、我々に再び師父が語られた一言をよく理解して、「修煉中にいかなる常人の物を加えたら、非常に危険だ。」《根を掘る》。法を実証するうちにどのぐらいの人のものを加えていたか、我々は自分を反省しなければならない。 

 個人を理解で、もし適切ではないところがあれば、同修のご指摘をお願いします。


 (中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/10/76804.html