日本明慧


わずかなお金から心を見る

 文/欧洲大法弟子 

 【明慧ネット2004年6月24日】修煉は神聖なことですが、この世に現れてきた現象は全て人々を震撼させ、目立ったものとは限りません。往々にして私たちは気を緩めてしまう時、自分の本当の心性が表れやすいのです。

 ある日、外で洪法している時、多くの学習者は食べ物を用意していませんでした。何人かの学習者が皆の時間を節約するために、食べ物を買ってきました。量の多さに関係なく、食べた人が1ドルを出せばいいということにしました。今回の活動は二、三日もかかるので、私は自分で食べ物を用意しました。しかし、ある日の朝、時間を節約するために私は他の学習者が買ってきた食べ物を食べました。その時、1ドルを払うべきだと分かっていましたが、この数日間でこれしか食べておらず、ほとんどは自分が用意した食べ物を食べていたので、払わなくてもいいのではないかと考えを変えました。そして、口実を探して後で払うと言って、次の日活動が終わって「自然に」この件を忘れ、家に帰りました。

 小さい額のように見えますが、この心はある日の夢に反映されました。夢の中で、私は数人の学習者といつも同じところでうろうろしています。この時、道端に置かれているたらいの中にジュエリーのようなものがあることに気づきました、夢の中でこれらのものは持ち主のいない物だと感じました。大した価値もなく、誰が取っても良いようなものでした。私はその中の水晶のような物を選んで、「面白そうなものだけど、もらっても役立たない」と思いました。しかし、すぐにまた「役立たないけど、取っても間違いではない」と考えを変え、もらって帰りました。

 夢から目覚めて、とても悔しかったのです。なぜ自分にとって価値もないほど小さいものに対しても、これほど執着するのでしょうか? これは「貪欲」ではありませんか。1ドルを払うかどうかの問題において、私は他の学習者のお金をもらうことになったのではありませんか? この心に気づき、自分が間違っていたと分かりましたが、深く考えませんでした。「もう悟ったから、これ以上考えると執着になる」と微かに思ったのです。この完全に取り除かれなかった執着のせいで、しばらくしてまたあることが起きました。

 私は他の学生と一緒に部屋を共同しています。毎月光熱費などを割っています。最近、費用を払う時、中に小銭が多かったので、そのお金をもらった人は機嫌が悪くなり、「お釣りを出すから、札をください」と言いました。小銭を合わせるとちょうどその金額になるのに、お札を払ったら、また細かいお金が返ってくるのではないかと思いました。しかし、財布の中にちょうどお札がありました。渡さないと嘘をつくことになるのではありませんか。ちょっとためらって「札はない」と言ったのです。部屋に戻って、気が重くなりました。彼らと一緒に住んでいるこの一年来、私はいつも修煉者の基準をもって自分に厳しく要求しており、細かいことをできるだけ気にしないようにしていました。なぜ今回、小銭のために嘘をついたのでしょうか? 煉功者としての基本をも捨てるのですか? はっきり言えば、私心のために嘘をついたのではありませんか?

 落ち着いてから、私はこのことの前後をよく考えました。「修煉の中のどんな小さいことであっても、それは心の現れです」と悟りました。大きい出来事に私たちは気づき易く、自分を制御することができますが、小さいことなら気づき難いのです。これは小心翼々になるのではなく、小さい出来事から心性を見ることができ、自分の修煉状態を表すことができます。修煉してからのこの数年来、毎回大きい関に遭っているとき、急に乗り越えられず、急にある執着が現れたのではなく、難に遭う前に何回もの小さい出来事において良く乗り越えることができず、重視することができなかったから、執着心が徐々に強まり、最後に放棄できない強い執着となったのです。それによって、大きな難が現れ、乗り越えられなくなります。修煉はほかでもなく、着実に修めることです。多くのことにおいて、自分の心をどのように扱うかの問題が存在しています。出来事の大小の問題ではなく、執着心の大小の問題です。

 —あとがき—

 このことに気づいて、私は交流会の帰り道に自分の執着と悟ったことを全部他の学習者に話しました。その時、私が予約した帰りの切符は既に期限が過ぎていました。私は切符を買い直さないといけないとある学習者から言われました。幸いなことに、私は手数料を払うだけで、もとの切符はまだ使えると知りました。バス停に行く前に、他の人の車に便乗できた学習者は自分の汽車の切符をくれました。もし延長できなかったら、この切符で乗車すれば、少しの費用を節約することができます。しかし、汽車を待っている時、私はまた考えを変え、この汽車の切符を他に汽車に乗りたい学習者に渡し、やはりバスで帰ろうと思いました。バス停に行く途中、心はまた平静を失いました。「やはり汽車で帰ろうかな、それなら旅費を節約することができる」と考えました。この時、「これはもともと私がお金を払って買った切符ではない。なぜこれっぽっちの利益に執着しているのだろうか」と心を落ち着かせ、バス停の窓口で延長の手続きをしに行きました。驚いたことに、手数料は払わなくても済んだのです。これが「汽車の切符に対する執着の心を放棄すればもう十分だ」という師父からのメッセージだと分かりました。

 家に帰って、学校の図書館から手紙が来て、借りた本が期限を過ぎたから、罰金を払いなさいという内容でした。しかも手数料も払わなければなりません。交流会に参加する前だったので、本を返す時間はありませんでした。私はもう一度自分を落ち着かせ、払うべきお金なら払おうと決めました。次の日、本を返しに行って、本を返せなかった理由を司書に説明したら、司書は罰金を取り消してくれました。しかし、手数料をやはり払わないといけないと言われました。「払うべきお金なら払おう」と思い、払うつもりでしたが、司書が問い合わせたところ、払わなくてもいいと教えてくれました。

 今になって考えると、思わず笑ってしまいました。あれこれの出来事が起きたのは、この心を取り除くためではありませんか? もしこの心を早く放棄することができれば、これらのことも起こらなくて済んだはずです。


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/24/77818.html