日本明慧


周辺の学習者と修練する環境により多く関心を持とう——ある学習者の復帰することから

 文/アメリ カ大法弟子

 【明慧ネット2004年6月19日】週末皆と交流する際、私は学習者の甲さんと乙さんに知り合いの丙さんのことを話した。しばらく皆は丙さんに会っていなかった。

 「彼女は今置かれている状況がよくないから、皆を避けているような気がしますが」と甲さんが言った。すると「多分彼女の正念が動揺していると思います。私は最近彼女の職場へ会いに行ったが、どうも話したがらない様子で、わざと修練の話を逸らしました」と乙さんはこう話した。

 これを聞いて、私は心が痛むようになった。また一人の学習者が脱落したと感じた。まさか北米の寛容な修練環境の中でこんなことが起こるとは信じられない。これを反省してみると、私たちは長い間、周りの学習者と一緒に真相を伝え、法を正す活動で追われていた。その傍らで、一部の学習者にあまり関心を示しておらず、修練環境の整備を重視していないことに気が付いた。

先生は2004年シカゴ説法で「やはりいつもの話ですが、つまり私は誰をも取り残したくはありません」とおっしゃった。

 同じ煉功場所に通っていた一家三人は、1999年「7−20事件」以降、公の場に出て活動することに納得できず、「転法輪」の閲読と修練しかしなくなった。他の学習者が届けた明慧ネットの記事にもまったく目を向けようとしなかった。このようなことが何回か起こるうち、ついに一家を訪ねる者はいなくなった。ある学習者は一家のことが気になって、電話や訪問で心配の意を伝えたが、やはり拒否された。それでも、彼女がくじけないのは非常に感心することだ。

 ある日、彼女は、「今度、私は何も話さず、先生の経文だけを読もう」と思い付いた。彼女は一家と電話が繋がると、先生の経文を繰り返し読み始めた。先方の一家は電話を切らずにずっと聞いていた。やがて一家三人が突然泣き出して、心の中の氷がようやく溶かされ、目覚めてきた。その後、この一家は振り返って、「ずっとあることにコントロールされているようだった」と話した。

 話は以上であり私が話すととても簡単なように思われるかもしれない。しかし彼女が行動に移したことはそんなに簡単なことではなかった。私は自分と彼女の正念や行動と比べてみて、ずいぶん差が有ることに気付いた。私たち一人一人は先生のご教示を覚えていて、他の学習者に関心を持っていなければならない。そして大法の道から脱落しそうな者を助けていけば、正念で修練する環境はますます良くなると思う。

 私は皆さんにこのように提案する。できれば、日頃めったに会えない学習者、また関を突破することに執着した学習者達に気を配り、一緒に法を学んで交流する過程で問題の所在をはっきりさせ、法に則って誠実かつ我慢強く触れ合うように努めたい。私の経験では、自分が焦った場合に触れ合うとその効果が良くなかった。純粋な気持ちで接した時、相手は喜んで話題を受け入れてくれた。

 グループで法を学ぶ際に、ある事に捉われてしまうと、もっぱらその話ばかりで時間をどう配分したらいいかという議論が度々あった。法理の根本から言えば、物事が1つに通じればすべてに通じ、いかなる事をよくやっていけると思う。

 一つの例を挙げよう。周りに一人の60代の学習者がいて、今まで受動的に各種の活動に参加してきた。人に誘われた時に、「人数が足りないのか、もし足りるなら私は行かない、足りないのなら、私は行こう」と言った。その後、皆との触れ合いで彼女は、真相を伝える活動は単なる行動ではなく、大衆を済度することなので、参加する人数が足りるか足りないかの問題ではないことを認識するようになった。誰も彼女に代わって修練したり、真相を伝え、大衆を済度することは出来ない。彼女自身が行わなければならず、これが法を正す時期の大法弟子の責任である。彼女はこの法理が分かった後、大法の活動があるたびに、遠い所であろうと、暑い地方や寒い地方をまったく気にせず、喜んで参加するようになった。今回、ジョージア州のG8サミット会場外で真相を伝える活動に参加して帰った後、彼女は「この活動に参加した現地のおばさん達は非常に精進しています。また活動があったら、必ず行きます」と微笑みながら話した。私は彼女の毅然とした表情から、学習者がいったん法理を理解したら、何事もスムーズに進み、この状態がずっと続いていくと感じた。

 何故集団修練がこれほど重要だろうか?私たちは、仕事や勉強あるいは家庭生活が常に常人に囲まれている。そのため世の中の退廃したものに汚されており、集団で法を学ぶ環境に行けば、自分の執着と修練で取り除くべきものが発見できるからである。

 『《法輪仏法》─アメリカ東部法会における説法』である学習者は、「常人社会の状態に長く居れば、物事の成り行くままに従うでしょうか」と質問した。

 先生は「そのとおりです。したがって、私は古参の学習者、新入の学習者を問わず、煉功場所にいって、法会に参加することを勧めています。この環境であなたはきれいにされ、絶えまなく常人に汚された言葉、行為と観念も取り除かれます」と答えられた。

 私たちの煉功場所で毎週一回のグループ交流会があったが、法理をよく悟った学習者は忙しいため、だんだん来なくなった。また「煉功に行って、何かを得よう」と思った学習者は実際得たものがそれほど多くないと感じたため、来なくなった。結局、グループ内はおばさんたちばかりとなってきた。精進している学習者は、法を良く学んでいるため、何かにあった場合、常人の観念を乗り越えて問題を見ている。すべては法の力のお陰で、学習者個人の修練する程度に関係が無い。この問題を本末転倒していけない!先生は、大法の修練には模範がないとおっしゃった。私たちは煉功場所で常人の中の模範を見つけることではなく、法を師として、法に則って行動すべきである。

 ある学習者は、何かを求めたい心で来たが、法を学ぶ気持ちが純粋でないため、自分が何も得られていないと感じたら、煉功場所から姿を消した。時間が経つうちに、多くの学習者は真相を伝えることに来なくなって、本当に脱落者となった。

 ある学習者は、「もうグループに行きたくない、誰、誰の執着心を見ることに耐えられない」と言った。「家で法を学ぶのも同じだ」といった者もいた。集団修練の環境は先生によって与えられたもので、法理の面で私たちを高めている。同時に三つの事をどうやって成し遂げるかとの交流する過程で、互いに学び、他の学習者の精進ぶりと自分の不足するところが分かる。外部ではなく、自分の中から物事の事由を探る。他の学習者の執着心を見ることに耐えられない時、自分も同じく捨てられない執着心を持っていないだろうか。

 《時間との対話》の中で、先生は神とこのような話があった。「神:これらの問題はすでに深刻になっています。彼らは何で相手を見たら、先方に何かをする意欲があるのでしょうか、自分を見ればよかったではありませんか。師:もう彼らを自覚させるところですね。彼らを取り囲む環境を本当の修練する環境にして、彼ら自身を本当の神にします」。

 それでは、法を正す時期の大法弟子の称号を裏切らないように、先生のおっしゃったとおりに行動し、私たちの環境を本当の修練する環境にしよう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/19/77437.html