日本明慧


正念をもって邪悪を取り除く体験談

 文/北京の大法弟子

 【明慧ネット2004年6月23日】6月3日頃、突然悪い考え方がうしおのように湧き上がってきて、取り除くことができず、押さえ切れなかった。法をしばらく学んで一時的に排除して行くことはできたが、本を置くとすぐにまた湧いてきて、思想業より更に頑固であった。同時に家庭内での意見の対立も突然増えてきた。(妻はあまり修煉していない)自分でもとてもむかむかして、正念を発することも妨げられた。その後、これはきっと邪悪が邪魔し破壊しているのだと自覚した。しかしそれは私のなんの隙に乗じているのか?自分を深く見つめると、思想の中にまた一種の 「幸せな家庭」 を追求しているのがわかった。邪悪はまさにこの常人の執着を利用しているのだ。私は努力してこの心を取り除いて、そして私を妨害する周囲の邪悪な生命を取り除き、とても広い範囲での一面の乳白色な物質が次第に消滅されたことを感じた。何度も正念を発して、何層にもわたる、このような物質をきちんと整理した後に、情況は完全に変わった。妻も引き続き法の勉強や、正念を発することもできた。

 妨害を排除した翌日、早朝6時を寝過ごしてしまった。妻が私を起こすと、彼女は先生が教室で講義して、私を名指して、また一回授業が欠けたと批判して、さらに私に補わせるとおっしゃったことを夢に見たと言った。もう一回正時に正念を発する時また重視していなかった。心の中で自分は一日10数回、20数回正念を発しているから、一回少なくしてもかまわないと思った。寝ついた後にとても不潔な地方に来ることを夢に見た。先生はどうしてこんなに厳格に要求しているのか?自分は正念を発することに対してまだ厳粛な認識が足りないと、私は意識した。もし更に一人の大法弟子の力を強くすれば、邪悪の首領を一掃することができると言うなら、しかしその時ちょうど私は参加できるのに参加していなかった;もし私は更に一つの邪な魔を消滅すると、私達は邪悪な堡塁を攻め落とすことができるのに、しかし私一人がおろそかにしたため成功できなかった。これらの後の結果はとても深刻である。佛法神通は偉大で厳粛なことで、大法の弟子として、私達は厳粛に対応しないわけにはいかない、自分を厳しく要求しないわけにはいかない。同時に私も思い付いたが、先生は何度も私達に注意して、大法に対して、宇宙に対して、衆生に対して責任を負わなければならない。しかし私達の一部の人がこの面で自分に対して厳格に要求していない。例えば、時にはある事をするべきだと悟ったのに、執着があって邪魔されたので、やりたくなくなる。しかし、「その他の弟子もきっと悟っているから実行するだろう」とお茶を濁してしまう。物事を行うのに責任感があることと、執着とは別の事で、責任感に不足するのも宇宙の衆生が堕落する一種の要素である。

 ある時正念を発して、入静してから、1つの空間にとても多くの邪悪な生命があることを発見した。それで天火でそれらを燃やしたが、心の中に「燃やして、容赦なく燃やして」と考えていた。突然天から降ってきた洪水は火を消してしまった、その上二度と燃えることができなくなった。この時に一人の女神が天上で現れた。私は更に振り返って地上を見ると、一匹のワニは滔々とした洪水に沿って逃走した。この女神もたぶん旧勢力の中の生命かもしれないが、しかし彼女はどんな理由で私を阻止したのか?問題はほかでもなく「容赦なく燃やす」ことにあると私が思っていた。先生は《善を説く》という経文の中で「善は宇宙の特性の異なった次元、異なる空間に於ける表現であり、また大覚者達の基本的な本性であります」とおっしゃったが、怒ることは魔性の体現である。邪悪を取り除くことは法を正すことで、衆生に慈悲なことでもある。だから私は邪悪を除いても衆生に慈悲な心理状態を抱くべきだと意識した。続いて正念を発す中で、空の果てもいくつかの神が現れて、しかしすぐ一種の無形の力で押し返らせた。

 もう一回正時に邪悪を取り除いた後に、また近くに住んでいる邪に悟った人に対して正念を発して、彼女を助けてあげた。功を出した後に感じた抵抗力は私を驚かせるほど強烈だった。10数分立ってから、やっと邪悪な力を抑制できた。また10数分過ぎてから、やっとそこにある他の空間の邪悪な生命を取り除いた。それからまたアパートの各階で邪悪を注意深く捜索した。全部で半時間を使った。休んだ後に再度彼女の家に合わせて正念を発したが、感じたのは他の一種のエネルギーの障害であり、それは透明に近づいた。私の出した功もいっそうきめ細かくて、人の一面では明らかに感じていなかった。今度はよく修煉ができあがった一面が一定の作用を発揮しているが、さっきほどの一回は修煉している体が効力を発揮していたようで、2回目に正念を発するのに20分を使った。この経験の後に、それぞれ何人かの邪に悟った人に対して正念を発した。ある人は他の地方に住んでいて、功が彼女の家をきちんと整理した後で、自ら彼女本人に転送した;ある人には彼の家をきちんと整理した後に、功は一つの漏斗を通して、別の空間の間隔の中に入ったようで、抵抗力を感じられないが、長い間絶えまなくどっと湧いて入った;ゆっくりとアパートの各階を捜索する時、意外な妨げに出会うこともあって、そしてその物体(あるいは人)を通して1つの邪悪な生命の集中する場所を探し当てたこともあった。

 首領を取り除く時、私も正念を発する時間を延長した。最も長い時2時間以上もあった。足を組むことができなくなったらくずして、甚だしきに至ってはしばらく背もたれしたり、或いは立ち上がったりして、右手のたなごころが痛くなると、大蓮花掌にして、主に左手を使った。ある一回両手はみなとても痛くて、私は体を使って発しようと思ったら、功はすぐに左こめかみのつぼから出した。注意力が集中できる情況下に、私はまた手をすこし動かした。正時と半時、私は邪悪の抵抗力が大幅減少することを感じていたが、10分を過ぎた後にまた強烈に立ち上がった。何回か首領の体に抵抗力がほとんど消えてなくなって、特に17日晩11時半以降に、すでに完全に消えてなくなって、私の功は大河のようにもうもうと抜きんでて、しかし10分経つと抵抗力がまた現れて、そして次第に強大になった。

 時には入定してから功を出したことを感じられないで、ただ一種の「佛光はあまねく照らす」ような感覚だった。すべての人の状態は異なり、すべての人は異なる時期に異なった状態の下では感じ方も異なる。従って、求めることもできず、どんな感覚であれ自分で望むこともできない。

 正念を発して邪悪を一掃する中でもいくつかの問題があり、みなさんとも研究し合たいと思う。

 一つ目は、ある学習者が一段の話を出して、みなさんに正念を発する時に黙読させるように求めること。私個人では学習者の話はただ本人の体験による結果だけで、法ではない。更にみなさんに黙読させるように求めてはいけないと思う。この人はこの話を出して、あの人はあの話を出すと、かえってもともと落ち着いた心を揺れ動き始めさせる。これらの話の内容は私達が理解できれば、まったく黙読する必要がない。あなたはどこかの邪悪を取り除こうと思えば、功は自動的に探して行って消滅する。言葉は人間のものにすぎない。

 二つ目は学習者が主観的な願望を正念だと思うこと。例えば、ある学習者は首領をずっと帰国させたくないことを、他の人にもこのように思わせる。私がこれは主観的な願望だと思い、考えすぎると執着にもなる。法を正す勢いが到来する前に、首領を取り除くことができるかどうかは、私達がすべての邪悪を取り除いたどうか、あるいは邪悪の補充を許さないことによって決まる。これはまさに私達すべての弟子が自らの体験と実行によるもので、自分の主観的な願望を主張することではない。

 三つ目は、ある学習者が首領を取り除くことが実を結んでいないと思いこみ、おろそかしたり、放棄したりしたこと。首領に対して正念を発することで、多くの魔を確実に消滅させたのだ。首領は多くの魔が必死になって守っている一枚の人の皮に過ぎない。首領に正念を発することで、邪悪に全国から更に世界中からその兵力を撤退せしめ、各地のその他の空間の邪悪な勢力を極めて大きく削減して、各地のために徹底的に邪悪な妨害を一掃して、世間の人を救うのに有利な条件を創造するのだ。

  以上は個人の体験談なので、不適当な所があれば同修がご指摘してください。


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/23/77643.html