日本明慧


私は大法を信じる

 【明慧ネット2004年6月11日】今日私は明慧ネットで《目覚めよ:我々の道を正しく歩む》を読んだ。文章の中で指摘していた資料点(訳者注:世間に法輪功の真相を伝えるため、インターネットから法輪大法資料をダウンロードし、プリントアウトを行っているところ)の一部の人のあるまじき行為に本当に私は心が痛んだ。しかし、ああいうことは実際に存在していることを私は知っていて、しかも指摘されたことの大部分はわが地区の資料点でもかつて発生したことがあった。中でも真相資料用の資金を濫用する、長期にわたり法を学ぶことを重要視しない、大法の修練原則を無視する、私生活が不道徳、自己に執着する、トラブルを造って矛盾を激化する、口を修めない、気まぐれ、功名心にとらわれる、小型の資料点を「至るところに花が咲く」ように各地に多く運営するという原則に従わない、などなどの問題がかつて多かれ少なかれ現れたことがある。あの時、我が地区の資料点にこのような問題が発生したのを見て、私は心の中で問題を起こした同修たちが直ちに自分で過失を改めて、自分で目が覚め、反省し、正して協調し精進できることを望んでいた。私は根本的に彼らに指摘することを願わなかったし、言いたくなかった。言うのも照れくさかったし、明慧ネットに発表して我らの「家の恥」を全世界に公表することはとんでもないと思っていた。しかしやはり問題は発生したのである。

 ところが実は私が最初にこれらを耳にしたのは、警官の不法尋問を受けているときだった。あの悪人警官たちの言葉遣いは明慧ネットに表現されているようなものではなく、とても汚く下品で、今でも思い出すと顔が赤くなるほどである。これらの悪人警官たちが私の前で他の同修のよくないところを言っては私たちを嘲笑うのを目の当たりにして、大法弟子として、私は心の中で本当になんとも言えない嫌な気分を味わった。だった。

 私は何度も同修と交流したことがある。わが地区の資料点に事故が起こった情況から分析すると、私は確信した。つまり毎回事故が起こったとき、最初に事件の引き金になるのはすべてその当事者が強い執着心を持っているときである。その執着は時には常人の中のよい人にも及ばないものであり、時には口にも出しにくいようなものである。さらには大法の大義を掲げて大法の原則に違反することまでする。一部の人の行為ではあるが、しかしこのような「一部の人」が各地で続々現れた。もしこんなに大きい隙がなかったら、旧勢力が口実を探して我々を迫害することはできなかったと思う。我が地区の何度かの大きな事故はすべてこれが原因で、それによってもたらされた損失は極めて大きい。特に我が地区では最近起こった事で、資料点が不法に家宅捜査され、少なくとも20数名の大法弟子が不法に逮捕され、その多くが仕方なく家を離れ放浪することになり、現在真相資料制作はすでに20日間以上中断され、連絡も正常に取れない状況である。

 資料制作の仕事に参与している同修は、ほとんどは皆長い期間修錬してきた。なのになぜ未だこんなに強烈な執着心を持っているのだろう?ある面では普通の常人にも及ばないことがあるのはなぜだろう。ひどいことには大法の最低限の要求にも応えられない人がいるのはなぜだろう。ここまで思い付くと、私はいつも父のひと言を思い出すのである。ある時私が父に大法を紹介したとき、修錬しない彼は言ったのである:“人間がどうやって佛になれるというのか!”その時私は父の悟性が悪いと笑ったが、しかし今私は父の言った言葉がなるほどそのとおりだと思う。人は本当に決心して修煉しない限り、常に自分が修錬者であることを忘れないようにしない限り、確かに成佛するまで修行するのは難しいのである。

 私は修錬を始めてもう8年になる。心性が向上したことは言うまでもないし、しかも長い段階から見ても決して少なくない。しかし、自分自身にまだ小さいながらも執着心があるのを発見したとき、私は頭をひねった。こんなに長い期間修錬しているのになぜこのような執着心がまだあるのだろう。驚いた末、冷静に考えてみることにした。自分の修錬の道のりを思い出してみると、多くのことは私の最初の頃の認識とは違っていた。“私は修練を不動のものとする、私は必ず円満成就できる、私の修錬は自信に満ちている。”過去の私のこのような考え方は今考えるととてもおかしい。実際のところ、自分自身だけで修錬を成し遂げることは到底無理なことである。私にはその能力がないばかりでなく、私自身に対して根本的に執着するべきではなかった。正しい考え方は「私は大法に対し自信に満ち、私は大法が私を円満成就に導くことができると信じる」ことである。

 事実そのとおりである。修錬し始めたとき、私は一度にしてたくさんの超常的な法理が分かった。しかも我々はこの理は常人社会の名利を求め、隅々まで競争に満ちあふれている状況とは相反していることであるとみな知っている。しかし、我々の誰がすぐさま考え方を180度変え、大法の要求どおり完璧にできるだろうか。もしそうであれば、すぐに修錬を成し遂げたことになる。 私はこれらの理が正しいと分かっていたが、いっぺんにできたのではなく、事実上は根本的に無理である。長い道のりを経て、私はやっとある程度の要求に達することができ、この道のりこそが修錬なのだ。もちろん、多くの同修たちは私より向上が速かっただろうと思うが、実際の修錬はやはり「過程」が必要である。

 修煉の過程を分析してみると、すべては法を勉強することによって、徐々に法の中に溶け込み、徐々に法に同化し、その次に大法が私自身の良くないものを修正してくれたのである。つまり大法が私を変えたのであって、私自身が「人間の能力」によって成し遂げたのではないのだ。過去と現在を含めて、私が良くできたときはいつも法をよく勉強したときであり、大法の力が私を変え、私には最後まで修錬を成し遂げる願望とその努力があっただけだ。もし誰かが未だに法の角度から修錬とは何かを理解できていないとすれば、あるいは途中から何かをやることだけ重要視し、修錬を軽視したとすれば、すぐ常人の状態が現れ、さらには常人の中の非常に良くない状態が現れることもある。

 花崗岩のように頑固な自分の執着心に対し、修錬者は心はやれど力及ばずで、確かに師父と大法によって取り除かなければならない。師父は「2004年シカゴ法会での説法」では次のように説かれた。「多くのことは皆さんにはできないのですが、師父にはできます。しかし、師父がどのようにしてあげるのでしょうか? 師父があなたと接触すれば、取り除かれてしまうということではありません。あなたが正念を堅め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます。」この数年間、私は自分の根気に頼ったのではなく、自分の常人の能力を用いて大法のために真相を伝えることをやってきた。私は大法への信念があるからこそ修錬を堅持できたのである。法輪大法は私を円満成就へ導いてくれると、私は信じて疑わない。

 目下、正法時期において、私が歩んできた道は、時には間違ったときもあり、時にはずれるときもあったが、大法の力が私を正してくれた。それは私には誠心誠意大法に同化したいという真心があったからである。往々にして後から、法に対して理性的な認識が形成されたとき、あの執着心はもともとなんでもなかったことに気が付くのである。

 今後、私は大法弟子が行うべき三つのことを淡々と行い、特に法の勉強を多くし、大法で私の心の中の不正、不純なものを洗い流し、私が達するべき境地に達するようにしたいと思う。我々の資料点も大法の指導の下で平穏に運営され、真に「至る所に花が咲く」原則に従い、「大道無形」の道を歩み、法を証明するために、世人を救い済度するために役立つことを望みたい。

 (中国語:http://www.minghui.cc/mh/articles/2004/6/11/76808.html