日本明慧


両親が逮捕され、7ヶ月の赤ん坊は体に大面積の肌潰爛を起こした
─ 河南周口の悪警は大法弟子及びその家族に迫害を加えている

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年7月6日】河南周口の人々はまだ覚えている。今年2月20日、旧暦2月1日夜、周口市は歴史上でめったにない暴雨に見舞われた。稲光に雷がなり、荒れ狂った風は鋭く音を立て、大雨はまるで水を降り注ぐような感じだった。一晩中人の魂魄を脅かすような雷がなり続き、どしゃ降りの暴雨は人をおびえさせていた。周口は完全に暴雨と台風の中に消えていた…

 2月20日午後8か9時頃、法輪功学習者の譚智強と妻の許麗(譚智強は湖南省湘潭市江南機械工場の一時解雇された社員であり、許麗は河南省太康県三中学校の教師だったが2001年1月の末北京に陳情に行って逮捕されたが機会を見つけて抜け出して、ずっと家を離れて路上に迷った生活をしている)は、雨の中で北物資局の2階にコンピューターなどの設備(これらの設備は2万元を超えるものである)を運び込んでいた。当時、2階の部屋には明かりがついていて、思いにもよらないことに既に悪警が待ち伏せていた。譚智強が先に上がって行って、許麗は下で待っていたが時間が経っても譚智強は姿を見せなかった。それで許麗は異変を感じて、そこを離れようとしていると時、突然私服警官の悪警の黄金啓に捉えた。黄金啓は汚い言葉でののしりながら殴ったり蹴ったりして、許麗を下に押し倒した。許麗は大声で「法輪大法が素晴らしい!…」と叫ぶと同時に、彼女は周りに寄って来た人々に大法の真相を説明した。驚かされた悪警は急いで大衆を追い払った。力の限りを尽くして邪悪の不法逮捕に抵抗したため、許麗の身は泥まみれになった。彼女が夫の譚智強に会った時、彼はすでに打たれて頭に血を流していて顔は血まみれになっていた。

 その日、彼ら夫婦が家を出る時、生後わずか7ヶ月の赤ちゃんが家で眠っていた。

 後に彼らは、周口留置場に連れて行かれて、譚智強は6号室に閉じ込められて番号は12、許麗は1号室に閉じ込められて番号は11と付けられた。

 22日午前、黄金啓が留置場に来た時、許麗は子供に乳を飲ませたいと言って面会を申し出た。彼女の赤ちゃんはもうすでに二日間乳を飲んでいない。黄金啓は、子供は彼らのところですでに二日間食事を与えているが、おとなしく自供しないと子供に合わせないと脅迫した。午後、許麗は再度子供との面会を強く求めたが黄金啓は、依然として「問題を自供していない」ことを理由付けて、悪質にも母子の面会を許さなかった。

 23日午後になって、留置場は突然“哺乳期”を理由に許麗を釈放して、黄金啓が運転して彼女を康県公安局に送り届けた。夜10時ごろ、また県公安局の封金林、城関鎮教育クループの責任者(余氏)などがまた彼女を車に乗せて県人民医院に行った。白髪の彼女の母はすでに3年間彼女と会っていなかった。母は娘を抱いて号泣のあまり声も出なくなった。「一体、あなたは何をしていたんだ?赤ちゃんの尻はもう腐りかけてぼろぼろになっているんだよ…。」許麗は病棟に入ってみて、驚いてしまった。3日前まであんなに元気で可愛かった小正正(息子の愛称)がいま病床に横たわっていて、真っ白な掛け布団が息子の小さな体にかぶっていた。息子の小さな顔には、酸素ボンベをしていて、鼻には酸素管が差し込まれていて、頭には点滴をしていた。息子は小さな目をぴったりと閉じて、意識不明な状態になっていた。この時、彼女はやっとわかった。黄金啓が口くせに言っていた「子供は元気」というのはまったくのうそだったのだ。

 許麗は胸が裂けてしまいそうな痛みを感じて、慌てて前に行って息子の柔らかくて小さい手を取った。息子の小さい手はまるで氷のように冷たかった。「正正、正正…」と彼女は泣き崩れた。母子は心が通うもののように母の泣き声の中で息子の小さい手はだんだんと熱気を取り戻し始めた。小正正は、ついにゆっくりと微弱に目を開けて、かろうじて頭を母のほうに向けた。「うん、うん…」と小正正は悲しみと苦しみのあまり泣き声を出していたが、衰弱していてまるで小猫の泣き声のように微かだった。彼女が子供のオムツを換えようとした時、目に入った光景は悲惨で心が痛むほどのものだった。小正正の太ももの両側と尻はすでに広く潰爛、化膿していて、むごたらしくて見ていられないほど酷いものだった。その後、子供の尻は癒合したものの、いまだに暗色の傷痕が残ったままである。

 一体、これはどういったことなのか?実は、小正正の両親が逮捕されたその日の夜、悪警らは鍵を探し出して、無断で潁河小学校の家族宿舎の第2ユニットの6階の東向きの賃貸部屋に乱入して、衣類、掛け布団などと7000元の現金を不法に略奪した。22日午後、県公安局の封金林などは小正正を太康県遜母口鎮にいる許麗の母の家に送り込んだ。当時、小正正は反応が鈍く、泣くことも笑うこともしなかったので、知的障害があると思っていた。許麗の母が小正正を渡された時、彼の顔色は真っ白で口元は乾いて皮が抜けそうになっていた。泣き声は弱くて、ひたすら吐いてばかりしていた。更に、子供の綿入れの服、綿入れのズボンを見ると、大便とおしっこに浸されていて、むんむんと臭い匂いがした。小正正にオムツを換えようとして開けてみて、許麗の母らは驚いてぽかんとなってしまった。小正正の柔らかい尻は、すでに大便とおしっこの液体に浸されて、広範囲の潰爛、化膿および生殖器と肛門は腐りかけていて赤くてぼろぼろになっていた。小正正の太ももは履いていたオムツ替えズボンに当たって両側の柔らかい皮膚には血が流れていた。

 可哀想にも生後わずか7ヶ月の赤ん坊の小正正は、市公安局にいた二日間、両親と受けるべき世話を失って、彼の指の爪一つはなぜか抜けていて、また高熱を出していた。

 考えてみて下さい。旧暦の2月初旬は、1年中最も寒い時期であって、その何日間はまた雨まで降っていて、生後わずか7ヶ月の赤ん坊は、両親の加護を一倍必要としている時期にもかかわらず、両親は不法にも逮捕されて、それに周りに身内一人さえいなかった。小正正は、どんなに孤独でどんな苦しみを感じていたのだろうか!

 許麗の母は、急いで小正正を抱いて行って、熱を下げる注射を打ってもらったが小正正は一晩中寝ないで、泣いたり、騒いだりした。許麗の母と叔母は一眠りもせず交替で小正正を看病した。ようやく夜明けを迎えて、23日午前、許麗の母は、小正正を抱いて鎮北の焦医者のところに行って点滴をうってもらった。しかし、小正正は点滴の途中で突然、顔が真っ青になって、助かりそうもなかった。祖母はびっくりして、また小正正を抱いて鎮病院へと走って行って、食事中の小児科の医者李国興を探し出して、小正正に酸素吸入を求めた。引き続き、また120救急車を呼んだ。120医者と看護婦が来て、子供の状態を見て、恐らく途中で死んでしまう恐れがあるとして、最初が受け入れてくれなかった。許麗の家族みなが再三お願いをして、やっと許可が出た。途中で小正正が目を引っくり返して気を失っていた。

 県の人民病院に運ばれたが、病院側は受け入れず、処方で治療しないかと勧めた。許麗の母はまだ生後わずか7ヶ月の孫のことを考えると、心が痛くて全身が震え出してしかたなかった。許麗の母の再三の哀願によって、病院側はやっと受け入れると許可を出して、入院部の新生児区7病室の11番病床にようやく譚孩児(名前)という署名が書いてある名札が付け出された。小正正は、尻の広範囲の潰爛、化膿によって呼吸が衰弱して、意識不明に陥って、何度も呼吸停止現象が現れた。特別看護がタイムリーに行われたため、危機から逃れることがやっとできた。小正正の両親は不法に拘禁されていて、それに小正正の祖母と祖父は両方とも体が良くなく、心臓病、脳血管病に苦しんでいた……もし、小正正が助からず死んでしまうことになるとどうしたらよいのだろう?どうやってこの子の両親に説明をするんだろうとか許麗の母は不安でたまらなかった!

 緊急の中で、許麗の両親は周口市公安局に電話をかけて、子供の命が危険なので小正正の両親を釈放するように求めると同時に、子供にもしものことがあったら、誰がこの責任を取ってくれるのかと突き詰めた。最初、公安局は釈放を承知しなかったが、許麗の家族からの必死の電話によって、仕方がなく許麗を放すことにした。

 小正正は一週間くらい酸素器の世話にならざるを得なかった。点滴を打つために頭を丸坊主にして、頭中が針の穴だらけで血管を見つけるのに看護婦は相当苦労をした。酸素器を抜いてから、小正正は高熱を出して、その後はまた下痢をし始めた。小さいお顔はやせこけて皮に骨ばかりだった。小正正の身内は心配と不安で落ち着きのない毎日を送っていて、心身ともに疲れ果てていた。入院の間、県公安局の封金林などが親切を装って見舞いに来たことがある。
12日後の3月6日、精神的、肉体的苦しみを味わい尽くした小正正は、退院した。医療費はその他の費用を含めて合計2千元あまりだった。小正正の両親は2001年から路頭に迷った生活を送っていて、邪悪な迫害を免れるために、ずっと家に戻らなかった。今、家に帰ったとしても、生活費がまったくなく、学校側も出勤を許さなかった。いかなる経済の出所がない状況下で、許麗は遜母口化学肥料工場の家族宿舎に戻って、年寄りの両親に頼るしかなかった。

 3月10日、退院して4日目に小正正は、また38度の高熱を出した。思いにも寄らないことに県公安局の者だと名乗る女性二人と男性一人が白色の公安車で現れて、許麗に「保証書」を書いて問題を自供するように強制した。当時、許麗は焦り果てて、慌て子供を抱いて診察に行った。彼らは許麗に残って資料を書くように強制したが許麗に拒絶された。またしばらくして、県公安局の封金林などが来てかき乱して、許麗に資料を書くようにまた強制した。その時も小正正は38度の高熱を出していた。

 許麗家族はかつて小正正の父の譚智強との面会を申し出だが許されなかった。7000元の金の返却を求めたがそれも拒否された。また、前の賃貸し部屋にある衣類と布団を周口に持って来たいと要求しても断わられた。

 4月10日、周口検察院の者だと名乗る太康公安局の遜母口鎮の鎮長、鎮派出所の何人かが白い乗用車一台と白色の公安車で許麗のところにやって来た。彼らは彼女と譚智強の案件は、すでに市公安局から区裁判所に引き渡すことになったと言いふらしながら許麗にすこし供述記録が必要であると言った。しかし、彼らは小正正が酷い目に遭う前には健康で、活発で可愛かったが、しかし、周口市公安局が2日しか食を与えなかったことが原因で、呼吸の衰弱、尻あたりの広い潰爛と化膿を引き起こして、生命が危険な状態にまで陥ったことに関しては口を閉じて一言も言わなかった。小正正は瀬戸際で命拾いしたものの、体が極度に衰弱していて、二日三日おきに高熱を出したり、下痢をしたりする。

 許麗の家族はこのような状態の中で、食事も睡眠もよく取れず、特に、6、70歳の許麗の両親は、多病な体で孫の病気で不安の毎日を過ごさざるを得なかった。小正正が退院して1ヶ月も経っていない内に、一部の不法の悪党らが不意をねらって三回かき乱しに来た。これらは、許麗の家族にとっては更に泣き面にハチであって、家族全員は恐怖に脅かされて、近所にも不安を与えた。

 邪悪な悪党の理不尽な迫害に耐えられず、許麗は白髪で多病な肉親と母乳を待っているわずか9ヶ月の息子を離れて、また路頭に迷った生活を始めなければならなかった。

 どうして、弱々しい女性一人がただ法輪功に対する信じる心を貫いたため、迫害を受けてこのような窮地にまで落ちなければならないのか?広々とした中華大地に真理を述べる場は、果たしてどこにもいないのだろうか?痛恨で心が悲しみいたむことではないだろうか!

 私たちは、全世界の善良な人々が両手を差し伸ばして、小正正の一家、また江××ごろつき集団の迫害を酷く受けている法輪功学習者に対する緊急援助を行い、悪人に厳重な懲罰を与え、正義が世の中に広がるよう心より願っている!

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/7/6/78782.html