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『法を覚える体験談』を読んで

 【明慧ネット2004年7月15日】私は明慧週刊に載っている『法を覚える体験談』という文章を読んで感動して幸福感でいっぱいになりました。

 以前、私も法を覚えようとしたことがありますが、とても難しくて自信をなくし、中途半端で、とうとう第一講も覚えられませんでした。迫害の中で私は2年の間不法監禁をされたことがあります。その時少しだけ先生の説法を暗記でき、自分の意志を固めることができました。ある囚人たちは迫害の真相を知った後、法輪功をもっと知りたいので、私に『転法輪』を聞かせてほしいといわれましたが、私はできなかったのです。「あなたは8年も法輪功をやってきたのに、それができないのか?」といわれました。私は恥ずかしくて、もし釈放されたら必ず法を覚えようと決心しました。

 そしてやっと悪の巣窟から脱出した私は、あらためて真相を伝える活動に身を投じました。そして忙しい毎日の中で、自分が誓ったことを忘れようとしています。『法を覚える体験談』にこう載っています。「学習者同士の間に、このようなことを考えたことがあるのですか。もし法を正す期限があり、修煉の期限があるとしたら、私達は法を学ぶ期限もあるでしょう?そうすると、昨日は今日の昔のように時間が流れていくでしょう?時々学習者同士が時間を無駄にしているのを見ると、とても悲しいと思うのです。私達は何のためにこの世に生まれたのか?何が最も大切なのか?いったい生命の真の幸せとは何なのか?よく考えてほしいです!」これを読んで私は衝撃を受けました。世の中の人々は名利のために受験戦争に臨んでおり、朝早くから夜遅くまでテキストの暗記を強いられていますが、私達の生命を造ってくれた大法を覚えることができなくて、結局、法を正す終わりの時がくると、自分にとって永遠の後悔だけか残ってしまうのです。ですから、私たちの偉大なる先生に、必ず法を覚えますと誓いました。

 初めは第一講を10日で覚えてしまいました。とても嬉しかったです。しかし、第二講から難しくて、時には何十回暗記しても覚えることができなくていらいらしました。そして、法の学習を通して、覚えるというのは人の記憶力の良し悪しに関係なく、修煉においての練磨なのだということがわかりました。

 先生の説法に、「大法は無辺であり、すべてが心の修行にかかっています。“師は入り口まで導くが、修行は各自に有り”と言われるように、すべて本人自身がどのように修煉するかによります。修煉できるかできないかということは、本人が忍耐できるかどうか、代償を支払えるかどうか、苦しみに耐えられるかどうかによって決まります。いかなる困難にもはばまないほどの固い決意を持っていれば、何の問題もないでしょう。」(1)とあります。

 修煉には近道がなく、すべて努力次第です。法はなかなか覚えられませんが、日々の努力の中で法悦を感じています。修煉において、今まで『転法輪』を何百回も読みましたが、今回法を覚える中で、何箇所かの経文に新たな認識が浮かび上がり、法に対する理解も以前より深まりました。

 『転法輪』による“エネルギー場”にこう載っています。「悪い心の持ち主がゆがんだことを考える時、あなたの場の強烈な作用を受けて、その考えを変え、悪いことを考えなくなるかもしれません。人をののしろうと思う者も、急に考えを変えて、やめたりします。ただ正法修煉のエネルギー場だけが、このような役割をはたせます。」(1)また先生は他の説法にもありますように、「あなた達は、偶然の場合であれ、普段の生活の場であれ、職場であれ、その時その場所において真象を伝えるのは忘れてはならないのです。そしてこの浮世にただ通りがけの人だけに対しても慈悲というものを相手に留まるべきです。救い済度すべき者を逃さず、縁のある者をいっそうなくしてはならないのです。」「大法弟子の正念が十分であれば、この世にいるあなたの存在は有益な作用として働きます。」(2)

 私は、かつてこの法をあまり理解できませんでした。無言のままでどうやって慈悲というものを相手に伝えるのかと納得できませんでしたが、それは正念の場にかかっていることが今の私にはわかりました。今や法輪功学習者は全世界で一億人を越えました。もし我々が先生の教えに従って、大法を証明し、真相を告げ知らせ、衆生を救い済度する(真相を解明することによって人々に善の種を蒔く)などのことが実行できれば、この宇宙において強大な正念の場を形成することができます。そうすれば、逃げ場がなくなった悪党の学習者に対する迫害をなくすことができます。学習者達が自らの正念の場において、真相を解明することによって人々に善の種を蒔くことができれば、衆生を救い済度することもできます。このように実行していけば、宇宙の生命はより多く救い済度されるのではないでしょうか。

 また、法を覚えることは執着心を取り除く修行でもあります。かつて不法な逮捕から逃げ出した時、私は足にけがをしたので、座禅に支障を来しました。座禅と発正念をする度に、足を組むと激しい痛みが走るので、すぐに足を降ろしてしまいました。「転法輪」の第四講に、「座禅の時間が少しでも長くなると、耐えられない人もいます。しかし、足をくずすと、せっかくの煉功が無駄になってしまいます。座禅をして足が痛くなると、しばらく足を動かし、また足を組み直して座禅をする、そんなやり方では、何の効果もありません。」(1)とあり、私はこの教えに打たれました。ですから、常に正念を発して足の障害をなくすようにしながら足の痛みを辛抱すると、いつのまにか一時間以上座禅をすることができて、痛みも感じなくなりました。

 ところで、長い間私が執着していることは古代劇のドラマに嵌っていることです。情というものは執着心と知りながらも、たくさんの時間を無駄にして法の学習を遅らせました。先生の説法にもありますように、「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かをいれれば、それになる。」(3)。

 この法を知りながらもなかなか癖が直りません。他の学習者にも言われるように、「一方には仏に憧れ、一方には俗塵に塗れる。」また転法輪により、「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄できるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできせん。」、「とにかく人間社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜けだすことができれば、誰もあなたを動揺させられず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです。」(1)。これを覚えた途端、浮世は夢だと一瞬にして悟りました。その後、テレビは見なくなりました。

 法を覚えることによって、集中力が高められ、心を静めて法を学習でき、眠りの退治にも利き、煉功や発正念も、以前より静まるようになりました。こうして、執着心を取り除き、心性も高まり、法を覚えるスピードも速くなりました。つまり、法を覚えることは修煉において大変に役に立つので、学習者の間に広げたいと思います。法を覚えることは、ずっと継続していくことが大事だと思います。いつか、必ずすべてを成し遂げることができて、大法に溶け込んで一体となるのです。

 以上は個人の体験談ですが、宜しくご鞭撻ください。

 注:

 (1)『転法輪』

 (2)『2003年アトランタ法会での説法』

 (3)『法の中に溶け込む』


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/7/15/79416.html