日本明慧


今年7月のDC法会での妨害からちょっとした考えを論じる

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年8月9日】明慧ネットを通じて、今年7月のDC法会での警報器の邪魔騒動、秩序がよくなかったなどの報道を読んで、大陸の同修として言葉ではなかなか表現できないほどの心の痛みを感じました。それで、今日私はこの場を借りて、大胆に自分の考えを言わせて頂きたいと思います。適切ではないところは同修のご理解、そしてご指摘をお願い致します。

 邪悪の迫害がはじまってすでに5年が経ちました。国外の同修は真相説明を行って、国内の大法弟子の圧力を軽減させるために巨大な努力をし続けて来ました。正法の情勢が好転に向かいつつある情況下で、法会でこのような情景が現れるということは、国外の同修は自分の中に原因を探すべきではありませんか。またこの事は、ある程度の歓喜心や気持ちの緩み、或いは邪悪に対する油断、さらに時間が経つにつれて常人化してしまい、正法に対してあるべき神聖さと厳粛さが欠けていることに起因しているのではないでしょうか。国内にとっては、いくら邪悪が少なくなったとしても、迫害はまだまだ残酷なものです。師父の経文を伝えるために、同修との交流をする時も、苦難に満ちた巨大な危険を冒す場合があります。更に刑務所、労動教養所に入れられている同修の苦難はいかなる残酷なものなのか言葉では表現できないほどのものです。国外のように師父の生の声と師父のお顔を拝見しながら洪法を聞いて、自由に同修たちと一緒に交流し合えるということは、国内では想像すらできないことです。この点から言いますと、国外同修は本当に“万幸の運に恵まれている”のです。

 国外の同修は時間が長く経つにつれてこの事を大事にしなくなって来たのではないでしょうか!このような“幸福”を感じられなくなったのではないでしょうか!(勿論、みながこのようではありません)法会の神聖さと厳粛の気持ちが薄れたのではないでしょうか?知らず知らずのうちに“普通の慣例会議”だと思っているのではないでしょうか?常人でさえ会議の秩序を重んじているのに、このような神聖な法会で勝手に自分の好きな時に来て、好きな時に帰ってしまうなんて(例え自由であっても)残念な限りです。本当に神、道を修めようとする人がこのように振る舞えるものなのでしょうか?私には同修たちがどのような心態を抱いて法会に参加したのか分りません。ただ師父に会うためですか?あるいは新しい内容を聞くためですか?法会は私達が互いに交流し合って、心性を高める最も素晴らしい場なのです。どうして心を静めて同修の発言に耳を傾けないのですか?私たちはいま神を修めているのではありませんか?他の同修がどのように神を修める道を歩んでいるのか真剣に聞くべきではないでしょう?“発言を聞かなくても向上できる”と思っているその心は、自分自身の修練に対して果たして厳粛であると言えるのでしょうか?失礼な心ではありませんか?反迫害の中で自分自身の行為が必ずしも正しく行われているとは限りません。どうして他の同修が如何に正念正行で正法活動をしているのかを聞こうとしないのでしょうか?それらの“自己感覚良好”の心こそがまさに向上を妨げる障害ではないでしょうか?

 大法法会は神聖な正法の場であり、邪悪を消滅する場でもあります。大法の一つの粒子であるなら、どうして意識してこの場を守ろうとしないのですか?邪悪な妨害がある時、あなたの正念を持った制止を必要としています。それなのにあなたはかえって避けて行きました。邪魔が入ろうとした時、もし、みんなが整然として掌を立てて邪悪を取り除いたならば、邪悪は即解体されたはずです。突然やってきた妨害は、実のところ、正法修練者の心性の位置を試しにやって来たのではありませんか?私たちが至る所で常に正念正行であるかどうか見ているのではありませんか?

 一部の問題に関してまだ認識ができない新しい学習者がいる可能性もあります。彼らはよく古い学習者を見て行動します。だとすると古い学習者たちは一体どのように行いましたか?正念の場を持って周りの全てに影響を与えるべきではなかったのでしょうか?新しい学習者の模範になるべきではなかったのでしょうか?私たちは心性を高めることができるすべての機会を大切にすべきであり、邪悪を取り除く如何なる機会をも見逃してはいけません。

 法会上でこのような邪魔が現れるということは、まさしく破壊的な妨害なのです。私たちは全体的に問題がなかったかどうか自分自身に向かって原因を探すべきではないでしょうか?正法修練者として客観的な原因を強調しすぎではいけないのです。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/8/9/81336.html