シカゴでの憎しみ犯罪に対する訴訟事件に新しい進展(写真)
文/シカゴ法輪功学習者
【明慧ネット2004年7月31日】2001年シカゴ中国領事館前で断食をしている法輪功学習者を殴打した二人の犯罪者は2002年相次ぎ法により処され(刑事事件)、罪を認めてから数日前また相次ぎ民事賠償の訴訟状を受け取った。彼らは憎しみの罪、殴打の罪、共同謀議の罪などで告訴された。この民事事件は2003年9月5日クック郡法廷法律部で受理された後、既に数回の法廷での協議を経ており、原告、被告双方の正式な交戦は本事件の進展に従って始まる。
原告の方霖さん、鹿豊さんは2003年クック郡法廷に民事訴訟状を手渡し、殴打に参加した三人には下心があって彼らに対する殴打を画策していて、これらは江氏ごろつき集団の悪意の宣伝を受けたためであり、憎しみ心理の下で法輪功学習者に対して憎しみの犯罪を犯したのであると訴えた。その後、原告は数回も法律手続きの通り訴訟状を被告に送った。被告はいろんな口実で断ったが、2004年5月被告の三人はみなやっと訴訟状を受け取った。三人の中領事館前で強暴を振り、法輪功学習者を殴打した鄭積明は訴訟状を受け取った回数が一番多く、最後の一回は訴訟状を届ける人の前でさえ依然として自分の身分を否認し、訴訟状を受け取ろうとしなかった。原告が被告の身分を確認した後、訴訟状を届けた人は手渡しの手続きを完了させた後、感慨深く「He is a great liar!(彼は大きな詐欺師だ。)」と言った。
原告弁護士レナード・ベーカーさんは2004年7月29日法廷に訴訟の補充資料を提出した。これに対して被告鄭積明の弁護士は必ず8月30日前に返事しなければならない。本事件が他の殴打犯罪と違うところは、被害者と被告の間には仇がなく、法輪功に対する憎しみ以外、被告には他の犯罪行為を犯す動機がないことである。これらのことから、原告は被告の犯罪行為は原告個人に対する偶然の事件ではなく、法輪功群体に対する犯罪行為である。事件の発生場所はシカゴ中国領事館前であり、本事件の発生の前も同じ場所で法輪功学習者は様々な騒乱を受けたことがある。その中で最も大きかったものは、2001年7月13日華僑連合会主席の邱超廉が率いて行った攻撃とセクハラだった。二ヵ月後、同じのところで、法輪功学習者が断食請願する期間中、また更に重大な事件が起きた。それは9月7日鄭積明と翁玉俊が法輪功学習者を殴り、殺すと脅かした事件である。この二つの事件の背後に必然の関係があるかどうかについては知るよしがないが、二つの犯罪行為の被告は共にシカゴ中国領事館と数多くの繋がりを持っている。
邱超廉の所属する華僑連合会はまさに中国共産党の海外での有力な支持者であり、かつて中国領事館官員の監督指導の下で法輪功に対して誹謗攻撃を行ったことがある。華僑連合会主席の邱超廉は法輪功学習者を攻撃した後、間もなく副主席から主席に昇進し、そして今まで主席を再任している。同時に彼はこの“業績”により“愛国華僑の指導者”となり、法輪功を迫害する首魁江沢民の自らの接見を受けた。また北京政府にいろいろと励まされ、国務院海外華僑連合顧問に招聘され、中国人民代表大会に参加するなどの奨励を受けた。
“愛国華僑の指導者”と異なって、鄭積明と翁玉俊は2001年9月殴打事件の後、素早く現場を離れ、とても長い間何の情報もなかった。2002年6月逮捕されてから、被告の鄭積明と翁玉俊の身分はやっと次第に明らかになってきた。この二人とも同郷人の鄭礼光がシカゴで創立した米中福建同郷人会の主要なメンバであって、二人ともセルフサービスの中国レストランのオーナであった。被告の鄭積明は逮捕された後、自分は原告を知らないと言い、原告と如何なる関係もなく、自分は無職だと嘘をついた。彼は思案をめぐらして法律責任から逃げようとした。同郷人会の副主席林増新とSing-chok Kwokに依頼して仲裁しに行かせ、15000米ドルの賄賂を使い、金銭で自分に対する法律訴訟を止めさせようとした。林増新は鄭積明に高血圧があり、彼の訴訟事件で家族に面倒をかけたくなく、同時に自分の避難移民の申請がこの事件の影響で受けたくないと言っている。またこれらの理由により、訴訟を停止させる寛大な処置を受けられることを望み、しかし決して自分と中国領事館のいかなる関係を承認しなかった。
この同郷人会の圧倒的多数のメンバは米国に密航してきた人であり、避難民でアメリカでの身分を得ている。会長の鄭礼光さえも避難民でアメリカ永住権を得た。ただし鄭積明、鄭礼光、翁玉俊を含めた3人の中国難民は迫害を避けるために、故郷を離れ、密航して米国に来たが、彼らは依然としてたいへんな“愛国者”だった。鄭礼光と副会長の林増新とも江沢民の自らの接見を受けたことがあり、翁玉俊はかつて大通りで赤旗に揺れながら江沢民のシカゴ訪問を迎えた。鄭礼光はかつて自分の同郷人会はかごの中の赤ん坊のように、中国領事館の配慮と愛護の下で成長して来たと言っている。
二名の犯罪者の身分が2002年6月に暴露されてから、2人の犯人は甚だしきに至っては賭博を含む多くの社会の日常活動を避け、中国領事館との直接関係もとても控え目にし、回避しようとしたが、中国領事館は依然として、鄭礼光の福建同郷人会をいろいろと配慮し、落ち着かせることを忘れなかった。例えば、2002年同郷人会感謝祭のパーティーには、シカゴ中国領事館の主要な領事達と華僑連合会の邱超廉主席とも出席した。代理総領事と自称する当時のシカゴ副総領事沈偉廉はこう言った:アメリカでの感謝祭は家族が集まる日であり、シカゴ中国領事館と米中福建同郷人会が今日一緒に集まったのは一つの家族の集まりである。(事実上、シカゴにはもう一つの福建同郷人会があるが、領事館の影響の下で憎しみの犯罪を犯していない。鄭礼光の米中福建同郷人会の中でも、この事件に参加したのはこの数人だけである。)
2004年4月の華僑連合会の第4回目の大会で、邱超廉は再び主席を再任すると共に、華僑連合会と姻戚関係の米中福建同郷人会の会長鄭礼光もついにみんなの期待に負けず、一気に華僑連合会副主席と昇進した。華僑連合会主席と副主席に対する紹介の中で、意味深く、鄭礼光は“困難を克服する”と言い、福建の同郷人をつれて、旗幟鮮明に1つの中国の原則を堅持し、法輪功と闘争し、国を愛し、故郷を愛し、積極的に愛国活動に参加した、……と指摘された。
まさにその通りである。警官に逮捕され、召喚状を受け入れ、弁護士を招き、米国の法廷に出廷することは米国にいる難民にとって確かに困難なことである。鄭礼光は“福建の同郷人を連れて法輪功と闘争する”ために本当に多くの困難を克服した。幸いに、鄭礼光の指導できるメンバは、ただ数人だけである。
別のニュースによると、2001年7月13日に邱超廉騒乱事件に参与した主なメンバである雷国鳴は既に2002年末に突然心臓病で死亡したと言う。近ごろはまた被告の鄭積明がすでに肝臓癌を患ったことが言い伝わって来た。
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2001年9月7日、用心棒の鄭積明(右)は道路を渡り方霖さんに突き進んでくる。翁玉俊(左、車内)は車のドアを開けて出てくるところである。
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2002は8月27日、鄭積明(右)と Kwok、
Sing-chok(左)が法廷に入るとき写真を取られないように顔を隠している |
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2004/7/31/80719.html)
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