日本明慧


良い人という観念から抜き出し、はっきりと執着を除き、続けて昇華する

 文/大法弟子

 【明慧ネット2004年8月19日】 修煉を始める時には、最初の第一歩はいかに常人の中の良い人となることであった。目的に達するためには必ず常人の中のよくない思想、行為、よくない好みを取り除かなくてはならない。この段階では人は一般に自分のよくないところを分っている。分っているからはっきりとよりよくすることができる。故にたくさんの人は修煉の最初の変化が非常に大きく感じる、向上も非常に早い。

 第一歩は到達した。たくさんの人は良い人だと言えるようになった。しかし得てしてこのときになると自分はどうしても向上することができなくなって、まるで修煉が止まったかのようになる。実は大法が修煉者に対する要求というのは、常人の中の良い人からスタートし、漸次に自分の心性を高め、常人の中の良い人よりも良い人になり、更により良い人になり、完全に常人を超越する良いひとになって、最終的には自分の円満成就するときの行くべき神仏の境界の基準に符合するようになる。つまり、常人の中の良い人とは、私たちの修煉のスタートに過ぎなく、決して終点ではない。でなければ大法および大法修煉を理解できていないことになる。

 私は一部の人が長期にわたって自分にとっての常人の中の良い人の基準に停留していて、ここを数年経っても乗り越えることができないのを見た。人、物事などとの矛盾が生じるたびに往々にして人の理で判断したがり、これでは自分が正しいのだと見て、しかし自分の執着をみることができない。ひいては同じような矛盾が数回生じても、あるいは矛盾を激化したことで、必要のない関門を作り出し、たくさんの修煉の時間を浪費した。

 実に第二歩の修煉の目的とは常人の中の良い人から抜け出すことである。常人の言う良い人とはなんでしょう? つまり常人の次元の人間の理で人をはかり、しかも常人の理はとっくに神の定めた人間の理から大きく外れている。修煉者はこの局限を飛び越えなければならない。それで初めて高次元の生命となれる。しかし常人の心性基準を超える生命とは、常人の中での現れも必ず非常に正しいものでなければならない。それは常人の次元にある真善忍の要求に符合するものである。

 一部の人が法を学ぶときに心を静めることができず、それで当たり前のように常人の中の良い人になることを修煉と同じだと考えている。これらは彼らの思惟が逆になっていることから分かる。もしこれらの観念を放棄することができなければ、殺人し、放火し、姦淫するようなことも許されるようになるのでしょうか? どんな悪いことも許されるのでしょうか? 実は彼らは人の“良し”、“悪し”の理の両側にたって問題をはかっている。だからはっきりと問題を見つめることができない。本当に上昇したのであればこのようには考えない。それは大法の中で悟った常人社会を越えた理で自分を指導するようになる。故にそのような悪いこともしないし、不安も存在しない。

 また一部の人が大法と接触したが、長期にわたっても常人の中の名利心や執着を放下することができない。自分を表現し、あるいは邪悪集団の買収に利用され、自分が高い次元の理を“悟った”と自称し、それからこれを口実として全く“真善忍”に違反する荒唐無稽な挙動をし、視聴を混同し、大法の名誉を損害した。

 私たち修煉者は皆執着を除いてから始めて返本帰真することができると知っている。それでは執着とはなんであろうか? 別の空間から見れば、執着とは物質的な存在である。それは観念および業と一体となっている。人間が念を生じると別の空間で一種の物質を生じてしまう。この種の物質はその人が続けて考えることでますます強大になり、それも人間の思想で一つの生きた霊体に強化され、彼自身の思想を生じることになる。それから彼の思想を人間の頭脳に反映し、その人の行為を支配する。もし人がそれの思想に依って行動したらたくさんの業をつくり、累積することになる。

 故に執着を取り除くためには、まず自分がどんな執着があるかを知らなければならない。自分の執着を知るには、まず自分の観念をはっきりと見定めなければならない。自分の観念を見るには、ただ矛盾の衝突の中で始めて人を悟らせることができる。故に生活の中の矛盾および魔難とは修煉のために残されたのであり、これらの矛盾および魔難がいたるところで修煉の過程にある自分のよくない部分を暴く。それに旧勢力も旧宇宙の理のもとで行動しているから、普通に言えば、一人の修煉者がその方面の執着がなければ、彼らも敢えてそのような矛盾および魔難を強制することができない。

 今日の人類の環境の中で、常人の道徳が著しく落下している。私たちはただこのような環境を利用して修煉している。道徳の落下した常人と心性の摩擦があったときに、まず考えるのはその常人がいかによくないのかを指摘するのではなく、最初に自分の思想観念を見つめるべきである。執着を取り除き、心性を向上させる。もし純正な心で物事を成すことができれば、それこそ高級生命が人間界で偉業を成すことになる。



(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/19/82087p.html