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秀教師である唐堅さんは虐殺された

 【明慧ネット2004年8月9日】法輪功学習者である唐堅さんは2004年7月7日に迫害によって死亡した。目撃者によると、彼の遺体は傷だらけとなっていたという。

 唐さんは2001年に一年の労働矯正を言い渡された。法輪功への信仰を放棄しないため、期限を超過しても監禁されて滅多打ちされ、結局、2002年7月には危篤状態になったので釈放された。ようやく少し養生できた同年9月には再び捕まり、虐殺されるまでに双口労働矯正所に拘禁されていた。

 明慧ネット2004年7月15日の報道によれば、法輪功学習者である唐堅は男、39歳、南開大学物理研究科を卒業。拉致される前に天津市南開区嘉嶺道中学校に勤めていた。法輪功を修煉する前にはいろんな悪い習慣があったが、法輪大法は彼を徹底的に変えた。法輪功を修煉することによって、彼は無私無我、他人のことを先に考慮するよい人間となった。彼は仕事場ではどんなことでも積極的に参加し、毎年優秀教師に選ばれた。家でも積極的に家事を分担するようになり、親を気遣い、妻をいたわった。

 当時彼はある煉功場所の責任者であり、余暇を休まず、学習者のために本を買ったり、資料を用意したりしていた。彼の修煉に関する物語は多かった。98年夏のある朝、皆が煉功していた時、暴風雨がやってきた。多くの学習者は雨を避けて、ベランダの下に集まったが、唐堅はそのまま煉功を続けていた。不思議なのは彼の周りは雨に濡れているにもかかわらず、雨が彼の身に降ってこない。煉功を終えてその場を離れた途端、大雨が降ってきた。当時たくさんの学習者はこの光景を目撃した。他の数名の法輪功学習者とともに煉功場所をきちんと管理しており、他の地区の学習者もよく煉功しに来た。学習者は問題があったら、彼と交流したが、彼は自分を顕示することがなかった。

 1999年7.20後、警察は唐さんを突破口とした。夜間、尾行して監視し、ある日、数名の警察官が彼の家に飛び込み、法輪功に関する書籍と資料を奪った。彼は「金はどうでもいいですが、それらの本は師父が説かれた宇宙の法理です。とても残念だ。」と言った。当時彼の息子が生まれたばかりにも関わらず、数回にわたって北京に大法を証明しに行った。毎回彼は安全に戻れた。彼はいつも「北京に大法を証明しに行くのは間違いではない」と言った。

 大法を証明するために、毎朝、周りの辛辣な風刺を気にせず、彼は一人で公園で煉功していた。大法や師父を誹謗したり、中傷したりする文章が張られているのを発見したら、躊躇せず直ちに剥して「法輪大法は素晴らしい」と言う内容の文章に張り替える。公の場でも怖がることなく、大法を中傷する警察に対しては弁論する。2001年7月学校の夏休みにある人が大法を中傷したが、彼はその場で多くの事実で大法の良さを皆に教えてあげた。すると、その場で嘉嶺道派出所に送られた。彼への災難はその日から始まった。彼の家族は彼とともに洗脳班に送られ、彼の一歳未満の息子も彼とともに迫害を受けていた。

 その後、彼は一年の労働矯正を言い渡され、双口労働矯正所に監禁されていた。彼の妻は最初に労働矯正所の彼とあったとき、彼は格好のよかった青年から傷だらけの老人のような人間となっていた。妻はどうしても法輪功を修煉する者がこれほどひどい目に遭うと思えなかった。結局この残酷な事実に直面できなくなった・・・

 次に、唐さんの母親が面会にきた。今回唐さんは散髪していたけれど、顔にはタバコの火で火傷した傷がはっきりと残っていた。彼は母親に「ここは人を滅多打ちする」と言った。唐さんの父親と弟は労働矯正所の責任者に「労働矯正所の警察官は息子の基本的人権を侵害した」と情況を説明したら、警察に「我々は上の命令を実行するだけであり、江沢民に是非を判別してもらいなさい」と言われた。

 2001年のある面会の日に、唐の母親は再び労働矯正所にやってきたが息子との面会は許されなかった。警察は「唐堅はあまりにも頑固すぎて、どうしても転化しない。彼に会うのは絶対だめです」と言った。結局、息子に会えずに家に戻った。途中で同じ労働矯正所に閉じ込められている法輪功学習者に面会にきた親族の人と会ったが、彼らも面会を許されないし、しかも法輪功への信仰を放棄しないため、彼らの親族は労働強制所に残酷な迫害を受けていた。

 唐さんは一年不法監禁された後でも、労働矯正所側は釈放せず、しかも面会を許さない。唐さんの衣服は全部なくなり、体も絶食により弱ってしまった。それから板橋労働矯正所に移され、結局そこで彼は危篤状態に陥ったため、労働矯正所は責任を負うことを恐れて彼を釈放した。しかし同年9月彼は再び拉致され、また双口労働矯正所に閉じ込められた。二度目に監禁された後の彼に関するすべての情報は絶たれた。実情を知る人は情報を提供してください。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/9/81353.html