日本明慧


依頼心についての分析


 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年8月23日】

 私は学校生活を離れて社会に入ってからもう一年が経った。私は高校二年のときに、つまり98年11月に大法と出会った。法を得るのは比較的に遅かったが、ただ単純で充実した学校生活は、利益闘争の満ちた社会よりも、私の純真で善良な本性を破壊しなかったため、より簡単に理性から大法を認識することができ、そして大法を堅持して修練することができた。

 私は順調に大学に進学できた。大学環境が小さな社会と言われているように、同級生たちは将来の出世の“資本”を蓄えるために、クラスの学生幹部のポジションを争っている時、私は黙々と大法を実証し、各種の真相説明活動をしながら、勉強に励み、同時にクラス内の二つの学生幹部の役を務めていた。そして私は順調に卒業しただけでなく、また“優秀学生幹部”と評価された。最も重要なのはたくさんの同級生たちが直接的、あるいは間接的に真相を知るようになり、大法の素晴らしさを知ったことである。卒業してから、私はある金融関係の仕事を見つけたが、ここでの物質環境は一流だが、同時に利益闘争も最も激しい場所であった。営利の心を持ちやすかったが、今の私はすべて平然としていられた。一時期、たくさんの問題が続々と出てきて、すべて解決してから、私は自分の執着を深く掘ってみることにした。私は自分には非常に深く隠されている執着心—依頼心を見つけた!

 今の金融界の競争は非常に激しく、それぞれの会社は各種の管理制度を設けた。職員の積極性を最高に高め、企業における最大の利潤追求を実現する。しかしこれらのすべての手段は経済利益とかかわりを持ち、各種の審査指標を通して職員を管理する。すべては数字でもって計り、収益所得も完全に数字でもって決定される。このために、すべての人が利益のために手段を選ばず、自分の才能を多めに表明する。例えば、業務量を審査するときに、同じ金額で、百元としましょう。ある人が百元札一枚をもって貯金し、もう一人が十元札十枚を持って貯金する場合、後者は簡単な理由でキャンセルされることがある。というのは同じ業務量であっても、十枚を数えるほうが一枚を数えるより多くの労働をしなければならないから、これは損だと感じる。小さい点においてこのようだから、大きな利益にあうと、同僚たちの間で罵りあい、喧嘩することさえある。これらのすべては私から見て全くつまらなく感じる。なぜなら私にはそのような闘争心がないからだ。またそのような名利を求める心もない。私は利益の前でかくも平然といられることができることで、却って常人におかしいと感じられることがある。彼らは私を勉強の馬鹿だと認識し、中には関心をよせる同僚がいて、特に私にいかに争奪すべきか、いかに計略を用いるかを教える人もいた。私はただ淡々と笑ってごまかした。

 仕事の中の矛盾は時に非常に目立つことがある。なぜならすべての機制は宇宙の特性である“真、善、忍”とは完全に背離しているからだ。このような環境の中で修練するには、大法弟子の風格を表わし、未来に正しい道を残すために、常人に可笑しいと感じさせてはならない。つまり逆らったり、各方面で多くの矛盾があってはならない。私はよく同修と協議し、いかにこれらの矛盾を解決すべきか、問題を円満に解決すべきかを考えた。徐々に依頼する心も作り出した。問題に会うとすぐにどのように解決するかを求める。今から考えてみれば、実に外に向かって求めるのであった。自分の責任から逃避し、他人に自分はどうすべきかを聞くことで、自分を本当に向上させる機会を失い、同時に自分の執着心を容易に隠すようになる。

 依頼心があるということは、自分の怠惰、自分の責任から逃避するために、自分で思考することを嫌がり、精進できなくなる。それで他人は自分よりも強いから、他人こそが正しいと考えたがり、依って過度に他人を肯定し、自分を見落とすことになる。やはり他人は自分ではないから、他人から見る自分の矛盾はどうしても自分から見るほど深刻ではない。それに他人が答えを教えることで、この試練もその意味を失うことになり、この関門もまだそこにとどまるようになる。なぜならその心がまだ放下されていないから。他人はただ表面しか管理できず、その根本から管理することはできない。それにひきかえ、もし自分の思考を通して出した結論、あるいは取った行動は不完全で、不正確なのかもしれない。しかしそれは自分の中に向かって探し出した結果であり、自分の向上する過程である。つまずくとすぐに他人に助けを求めるようでは、いつになったら自分の道を歩めるようになるであろうか?それに、私は頼る心があるということは自分の私心、自分の執着を放棄したがらないためだと考えている。執着を知っていながらも放棄しょうとしないで、容易に関門を通りすごすことを願っているため、他人からの指導の助けを求めて、問題を解決させる。こうして、自分が“損失”を被らないで、問題を解決することができる。このような考え方は旧勢力に符合している。彼らは正法の中で、自分のすべてを放棄したがらないし、また容易に正法の一難から抜け出そうと考えている。この種の心こそ放棄すべきものである。

 依頼心は多方面にわたって表わされる。時には小さな動き、あるいは脳裏に浮かべる一念でさえも非常に強い依頼心を帯びている。少し前、私はチャットルームで、ひとりの大陸から移民したカナダ人に偶然に出会えた。彼女は99年に国を出た。私は彼女がカナダ移民だと知り、彼女はきっと真相を知っているのだと考えた。国外の環境は非常に緩やかで、メディアも開放されているから、それに海外の大法弟子たちもよく大法を広めているから、多数の人は真相を知っているのだと考えていた。しかし彼女と話していくうちに、彼女は何にも知らないことに気づいた。その上国外弟子の行為を全く誤解していた。私は突然自分の海外大法弟子への依頼心に気付いた。海外弟子による全面的な活動を期待し、自分はの努力しないで、自分の負うべき責任から逃れる。

 またあるときにある同修と会った。私たちの年は大して変らないが、彼女は早くも仕事をしていた。まもなく、ある大学卒業の友達を知った。毎回この友達に真相を伝えるときに彼女は困難を感じるし、彼も受け入れなかった。そこで私が彼女の友達と教育経歴も似ていて、より多くの共通点がある彼に真相を伝えようと考えた。しかし彼と外で会うときに、彼には用事ができ、時間がなかった。今までは旧勢力の妨害だと考えていた。、その上に私たちには縁がなく、成功しなかった。しかし今考えてみれば、同修の依頼する心こそが旧勢力に乗じられ、彼女が威徳を樹立する機会だったが、却って数回の失敗のために容易に放棄し、外に求め、他人に頼った。自分には執着があり、あるいは方法が良くないとは思わなかった。

 正法の中で、時にはこれらの現象が出てくる:新しい学習者が古い学習者に頼っている。精進しない弟子が精進する弟子に頼っている。国外の弟子が国内の弟子に頼っている。大陸の弟子がまた海外の弟子に頼っている。そして私たちすべての弟子はまた師父に頼っている。師父に早くこのすべてを終わらせるように期待している。修練の中では、老若の区別なく、新旧の区別なく、また国家間の境界もない。すべての弟子には輝きがある。正法の中のすべては私たち一人一人の責任である。“江沢民を訴える”“迫害に反対する”などは海外の責任に限らず、それと同様に、天安門で貴い中国人を済度するのも大陸の栄誉に留まらない。依頼心を取り除き、自分の道をより正しく、より穏やかに歩めよう。

 以上は個人の心得であり、不当なところは同修の慈悲なる指摘を期待する!

(中国語:http://209.51.163.219/mh/articles/2004/8/23/82367.html