「正念」の「正」についての認識
【明慧ネット2004年9月6日】今まで私は大法の仕事をするときいつも発正念するが、いつも余裕が残っていると感じ、徹底でなく、効果が良くない時もあった。自分もあまり気にせず、「とにかく発正念したので、たぶんもともとこの状態だろう」と思っていた。時には自分が間違ったところがあるかもしれないと思ったこともあったが、根本的原因を探そうとしなかった。
後になって、法を学ぶとき落ち着かなく、三つのことを任務として完成するようにしたため、邪悪に隙に乗じられ、やむを得ず故郷を離れた。遠いところに行くため、長距離バスを乗った。出発する前に発正念し、バスの中でもずっと発正念し、深夜になって寝る直前まで発した。
深夜2時頃、バスが突然停車し、ランプがついた。初めは気にせず、通常通り一時停車だと思ったが、十分過ぎてもバスは動かなかった。突然懐中電灯の光が現れ、車内は騒ぎ始めた。見たところ、交通警察が懐中電灯で車内を照らしていた。実はある乗客が携帯電話をなくしたので、彼は車内の乗客が盗んだのではないかと疑い、運転手にバスを止めさせ、交通警察を呼んで来た。私はすぐ正念を発した。
やがて交通警察はバスを降りた。運転手は大きな声で「誰が取りましたか、早く返してください、責任を追及するのではなく、早く発車する為です。さもないと、後で派出所の警察が来たら、一人一人検査されます。」と言った。私は緊張してきた。派出所の警察が来ると大変だ。自分の身分は問わず、私が持っているカバンには大法資料だけではなく、資料が入っているコンピュータもあるので危ない。私は正念を発しながら、警察がきたらどうやって対応するかを考えた。
暫く発してから、自分の思想が正しくないことに気がついた。私は大法弟子なので、邪悪な警察は私のカバンを捜査する資格はない。車に乗る資格さえない。そこで私はすぐ警察が車に乗ってこないよう正念を発し、警察を支配して悪いことをやらせる黒手を徹底に取り除き、携帯電話をなくした乗客を支配するすべての黒手を取り除いた。最後に警察は来たが車には乗ってはこなかった。あの乗客は相変わらず叫び、運転手に車を発車させなかった。私はずっと正念を発し、発車するよう願った。
突然、私は非常に良くない心があることに気がついた。私はあの乗客を支配する黒手を取り除く時の心は純潔ではない。私は不平な心を持っており、「大の男が携帯電話ぐらいの小さなものをなくして大騒ぎして、皆の時間を無駄した」という心を持っていた。このような心があるのに気が付いて、私自身も驚いた。われわれ大法弟子は「真、善、忍」に従って修煉するが、私の「善」はどこにあるのだろう。私は彼の立場で物事を考えず、彼のことを先に考えず、自分のことばかり考えていた。これも「私(し)」ではないか、私が携帯電話をなくしたらどうするだろう。この心を発見して、私は直ちに自分の考えを直し、あの乗客に一念を発して上げた。静かにしてください、失わなければ得られない、こんなことで大法に不利なことをして、業力を造らないでください。真相を早く知れば、大法は最も良いものをくれる。この一念を発すると、運転手はすぐ「出発します!」と言い、あの乗客も静かになり、自分の席に戻った。それから目的地まで順調になり、ただ数時間遅れただけであった。
このことから、私は「正念」の「念」について更に深く認識した。それから私は発正念するとき、自分の威力が大きいと感じられた。この発生した事件から、私はパッと明るくなったように感じられた。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/9/6/83502.html) |